第15話 蘇る記憶
「神隠し……」
稔流は、ぽつりと呟いた。
うっすらと目を開ければ、見慣れない天井に、昨日引っ越してきたのだと思い出した。
とても鮮やかな夢をだった。その夢は、過去という現実だった。どうして忘れ去っていたのか不思議なくらいに。
そして、さくらの存在を忘れていたのが、不思議と言うよりも不可解だ。
5年ぶりの再会であっても、誰とも見間違えようのない美しい白い少女を見ても、忘れたまますぐには思い出せなかったことが、自分でも有り得ない事だと思うのだ。
「5歳の俺、勇者だよ……」
頬が火照って、誰も見ていないのに、ころんと寝返りを打って突っ伏した。
稔流は、何かと奥手な子供で、今でもおとなしい子と思われることが多いのに。
思い出した幼い初恋は、恩人の少女に一目惚れをして結婚を申し込むという、あどけなくも衝撃的なものだった。
まっすぐに心惹かれて、その少女が『唯一』だと知ってしまった。
この世界がどんなに広くても、稔流の命があと百年続いたとしても、あの少女よりも鮮やかな存在と巡り会うことはない。
さらさらと、光を散らす『雪の糸』のような真っ白な髪も、長い睫毛も。つぶらな黒い瞳も。
晴れ着を着ても紅を差さなくても映えるような、赤みを透かす唇も。
助けてくれた時には深紅で、別れ際は白に変わった着物姿も。
怒りのままに雷と炎を操り、紅の鉄槌を下そうとした、荒神のような姿も。
全部、何もかもが綺麗で、幻想的で、なのに憧れで済ますことは出来なかった出会いは、揺るぎのない現実だった。
さくらは幼い女の子の姿のままだったのに。それでも、再会した稔流の心は、さくらを選ばずにはいられなかった。例え神様に記憶を奪われても、稔流は何度でもさくらを選び続ける。
(黙るな。約束しろ)
(稔流には手を出さぬと。失えば稔流が悲しんで泣く人間も、決して奪わぬと誓え)
小さな神様の声を、思い出した。
「《約束》するよ……俺は、二度とさくらを忘れない。さくらは、二度と俺を失わない」
稔流は言葉を紡いだ。
「俺は、二度とさくらから笑顔を奪わない。……必ず迎えに行くって《誓う》よ」
さくらは、忘れてもいいと言った。でも、稔流が思い出した時は、嬉しいと言って笑っていたさくらを思い出すと、胸が苦しくなる。
あんなに素直に、輝くように笑ってくれるのなら、本当は忘れられて少しも傷付かなかっただなんて、平気だったなんて、
「そんな嘘、つかないでよ……」
文字列と辞書的な意味だけ知っていた「切ない」という気持ちは、今の自分の心のような気持ちを言うのだろうか。
(俺が大人になったら、結婚して。俺が知っているような結婚にはならなくても)
(喜んで)
ふたりだけの、密やかな約束。
これからの稔流は、さくらと過ごす喜びひとつ幸せひとつ、他の誰とも共有出来ない。
座敷童とは、多くの人々にとって、昔話や伝説の世界の住人だ。
さくらの姿も、声も、心も、気付かない人々には『存在しない』のと同じなのだ。
ほかの座敷童たちは、成長して童ではなくなり、次々に去って行った。さくらは、どんな気持ちで見送り続けたのだろう?
(大人になったら、俺の花嫁さんになって下さい)
早く「大人になったら」の部分を言わなくてもいい自分になりたい。約束を、誓いを、守れるように。
そして、『みのり』――――
「みのり」いう稔流とよく似た響きの名前には、聞き覚えが有った。
でも、『聞き覚えた』のは神隠しの終わりの時ではないのだ。
何故なら、稔流は『5歳のお盆に村に行った』ことは、今までぼんやり覚えていたのに、神隠しにまつわることだけ東京に戻った時には全て忘れ去っていたからだ。
――――やはり、何かがおかしい。
でも、1ヶ月後に『みのり』だけは、6歳の誕生日に知ることになった。
稔流は、一度眠りに就いたら朝までぐっすり眠る子供だったのに、その日に限って夜中に目が覚めた。
このまま目を閉じてもすぐには眠れないような気がして、大人の気配がするリビングに向った。
「……ごめんね、みのり」
まだ稔流が廊下にいる時、押し殺したような母の声が聞こえた。
「おめでとうって……言えなくて、ごめんね。ごめんね……」
母は、泣いていた。ドアの隙間から、稔流は声をかけることも出来ずにその光景を見ていた。
まだ稔流が手が届かない、サイドボードの上にある何か。
小型の家具調の四角いそれが何であるのか、小柄な稔流は気にしたこともなかったのだけれども、知ってしまった。
いつも扉が閉ざされたそれは、その時は開けられていた。中に在るのは、小さな位牌。
知ってしまったら、もう、その前には戻れない。
「ごめんね……みのり。『なし』なんて、もう付けないから……!」
稔流の誕生日が来る度に、母はケーキとごちそうとプレゼントを用意して笑顔でお祝いしてくれていた。
でも、稔流が眠った後に、母は成長を祝うことが出来ない、もうひとりの我が子を想って泣いていたのだ。
知ってしまった。
自分の誕生日は、双子の妹の命日だったのだと。