第101話 実梨 ―みのり―
宇賀田実梨、18歳。
この3月に東京の高校を卒業して、天道村の家に一時帰宅した。
無事に父の出身校の医学部に合格したので、4月になったらすぐにまた東京に戻る予定だ。
お盆と年末年始は帰省するが、またこの村の住人になるのは6年後。
中学高校と進路に悩んだけれども、父に続いて村の2人目の医師になる道を選んだ。
春分の日には、大彦と狭依がやっと結婚式を挙げる。
やっと、というのは、狭依が『お天王様の巫女』となり、現人神・大彦とは中学時代から婚約・同居していたので、やっと法律に追い着いてくれたか、という印象だからだ。
同学年が集まりやすいこの時期に、村長の跡取りらしく盛大な結婚式を上げて、そのまま盛大な同窓会のような二次会になりそうだ。
そして、実梨にも、自分は遠いと思っていた結婚について、悩みごとが出来てしまった。
というのは――――
天道村では、数年前から無料の住居と食事を保証した農業体験アルバイトの募集が始まった。
積極的に《外》から『客人』を呼ぶ事に抵抗感を持つ村人も多かったが、最短半年から最長三年の体験期間を経て、この村で農業をやると決めた若者を公務員として正規雇用するという試みは、順調のようだ。
宇賀田本家でも、亡き曾祖母の家を寮として提供し、十代から二十代の男性が共同生活を送っている。
実梨も、高校時代から帰省の折に彼らと親しくしていたが、その中に実梨の母と似たような経歴を持つ若者がいた。
彼自身は父親の転勤で全国を転々として育ったが、彼の曾祖父が宇賀田の三の分家出身で、彼自身も宇賀田姓だったのだ。そして、
「実梨さん、好きです! 俺と結婚して下さい!! 実梨さんが本家を継ぐなら、俺は婿入りでいいです!! 6年待ちます!!」
……と告白とプロポーズを一気にされてしまった。
実梨も、年上の彼に親しみと憧れ、それだけでは言い表せない気持ちを持っていたのに、俯いてしまい、即答を避けてしまった。
赤ちゃんの頃から一緒だったという大彦と狭依はもうすぐ結婚、一緒に五十物語をやった秀樹と文子は、カップルで大彦の秘書として、大彦と同じ大学に進学して付いて行く。
ヤンキーの英雄『田んぼに突っ込んだ比良の坊さん』、そして彼を『憧れの英雄』と慕っていたヤンキー姫華との間には、もうすぐ子供が生まれる。
姫華の18歳の誕生日当日に入籍し、在籍していた商業高校の卒業式は欠席になったが、無事卒業。
天道村ならではの、早い時期から将来まで、人生を共にすることが自然だった恋人たちを知る実梨は、将来が見えない恋愛は不安定で、不確かな約束に思えて、足が竦んでしまう。
(あ……でも、なっちゃん先生みたいな勇者もいるんだっけ)
ふと、実梨は天道小学校の保健室の先生を思い出した。
なっちゃん先生こと安倍奈月先生は、1年の任期が過ぎて村を去ったが、3年後に看護師の資格を取り、パワーアップして戻って来た。
実梨は、体育の授業中に喘息の発作を起こし、生死の境を彷徨ったことがある。
先生に落ち度は無くても、何も出来なかった事と、村の医療の乏しさを思い知っての決断だった。
そして、その決断を遠くから見守り支えてきたのが、実は鳥海の分家の男性だった。
3年の遠距離恋愛を乗り越えて結婚した今は、鳥海奈月、やっぱりなっちゃん先生と親しまれて小学校に勤務している。
なっちゃん先生は、3年間の遠距離恋愛の先にある、結婚の約束と誓いを信じ、守った。
実梨がプロポーズに応じるならば、その2倍の時間の約束と誓いを、信じ、守らなければならない。
笑顔で「喜んで」と答える勇気が、出なかった。
《約束》も《誓い》も、守れないのなら不実な嘘と何が違うのだろう?
実梨は、嘘が嫌いだ。嘘が嘘だと明るみに出た時、誰かが傷付くから。
『あの時には本気だったんだ』なんていう心変わりに平気で居られるほど、自分は強くないと知っているから。
だったら、始めから約束しなければいい。何も、誓わなければいい。
でも、あまりにも真っ直ぐな告白とプロポーズだったから、曖昧な返事はしたくなかった。
……多分、すき。……本当は、すき。
でも……
18年しか生きていない実梨にとって、村を留守にする6年という時間は、あまりにも長く、遠く思えて。
結婚式前に入籍を済ませた鳥海狭依は、
「彼のひいおじいさんが『天神様の細道』を通らずに出て行ったから、曾孫の彼が村に帰ることになったんじゃないかしら?」
という言葉に続けて、
「きっと、実梨ちゃんに出会うためよ」
と、巫女の予言なのかロマンチックな願望なのか、謎の言葉を贈ってくれたのだけれども。
ひっそりとした「好き」でいたかった。
いつか別れが来ても、その方が傷付かないから――――
「ねえ……みのる。私、どうすればいいのかな。河童や狐なら、《約束》と《誓い》は必ず守ってくれるけど……人間は違うもの」
実梨は、その名が残されていない墓に、花を供えながら呟いた。
墓石には、明治からの直系とその配偶者の、没年月日、戒名、本名と年齢が刻まれている。
でも、そこに『みのる』の名は無い。
実梨には、実は双子の兄がいたと聞かされたのは、天道村に引っ越してきた小学校5年生の夏のことだった。
母は、早産で双子を産んだが、産声を上げたのは実梨だけだった。兄は取り上げられた時には心肺停止していて、蘇生は出来なかった。
(どうして、お墓に名前を書いてあげないの?)
(流産や死産のこどもは、この世の穢れを知らない綺麗な魂だから、戒名はいらないんですって。……だから、いいのよ)
10歳当時の実梨には、戒名なんてわからない。生まれる前から『みのり』とお揃いの名前があったという、その名前のことだったのに。
漢字で書くと『稔流』。
稔流の「流」は「ながれる」という意味の字だけれども、「長い」の「なが」の語源は「流れる」の「なが」なのだそうだ。
末永く稔るように、という両親の願いを込めた名前だった。
でも、稔流は死産だった。
生きて産まれることが出来なかった子、流れた子を水子という。
「流」は水子を連想させる字だったのに、名付けてしまった。だから生きて産まれて来られなかったのではないか――――
両親は、医療従事者だ。原因不明の早産もあると当然知っているのに、それでも後悔に囚われた。
だから、名も無き愛しい子として、心の中にそっと住まわせた。
そうすることで、両親は未来へと生きてい為に、悲しみに区切りを付けたのだろう。
実梨は、自分は愛されて育った子供だと思う。
だからこそ、母のお腹の中でずっと一緒だった『みのる』の名前を、消さずにいて欲しかった。
名前が無い子供の方が、悲しくて寂しいと思ったから。
名前と一緒に、兄の存在さえ、無かったことになってしまう気がして――――
でも、その事を、実梨は両親に言ったことは無い。
実梨はきっと、医師でも救えない命と、これから幾度も出会い、そして別れてゆくのだろう。
どうして、何故、と遺族に責められることもあるのかもしれない。
「みのる……」
もう、実梨しか口にしなくなった名を、呟いた。
「誰も悪くなくても、悲しくて辛い出来事に出会ってしまう。そういうことも、あるのにね……」
「うん。だれもわるくなんかないよ。お天道様がそう言ってるもの」
幼い声に、実梨は驚いた。
いつの間にそこにいたのだろう? 墓地の通路より一段高い所に、小さな女の子がちょこんと座っていた。