第100話 残された日々(二)
「稔流も数え十五になったらいなくなるって、大彦が言ってたから来てみたんだ」
「三太君は鳥海の座敷童なの?」
「違うよ。俺は波多々の座敷童。少し前まであやめも一緒に住んでたよ」
あやめが旅立ったのは二年以上前のことなのだけれども、長い時を渡る座敷童には『少し前』なのだろう。
「今日は、人間に混じってお焼香して、稔流にお礼を言いに来たんだ」
「俺は三太君に遊んで貰ったけど、三太君に何かしてあげたことはないよ?」
「狭依を助けてくれたから。ありがとう」
「……俺は、何もしていないよ」
鬼の姿で、血を流しながら帰って来たのは、さくらだった。
お天王様の慈悲で鬼の運命から解放されたけれども、座敷童の命も共に尽きて、さくらは消えてしまった。
「さくらはね、座敷童だったけど、俺よりも……誰よりも、ずっと力が強い、小さな天神様だったんだ。前は、人間が生きても死んでも、気に入った人間でも、そういうものだからって、どうでもよさそうだった。でも、さくらがたったひとつだけ選んだ『特別なもの』は、稔流っていう人間だった。さくらは、稔流と出会ってから心が人間に近付いて、優しくなっていったんだ。それ言うと、すごく不機嫌になったけど」
「……俺も、怒られたことがあるよ」
懐かしく、思い出す。荒神のようなさくらの心の鍵を開けたのは、稔流だったのだろう。
さくらは、元々優しかったのだから。太郎が伝承に残したように。
「本当はね、波多々の家がお天王様を捨ててしまった時に、まだ生まれてなかったのに狭依の運命は決まっていたんだ。お天王様に祟られて、堪えきれずに死んでしまう……って。でも、さくらと稔流が、狭依に別の運命を作ってくれたんだ。狭依は生きているし、子孫も残せる。だから、俺も安心して消えられる」
消えられる――消えると、少年の姿の座敷童は笑う。
「座敷童って、消えてゆく時には、悲しいとか怖いとか思わないの?」
「うーん、怖いと思ったことはないなあ。ただ、風や光に溶けて自然の中に還る……っていうことだから。還らないなら、座敷童じゃない何か、別の命を授かるんだろうし、次の母様のお腹に宿って、人間に生まれてくることもあるんだ」
「……そうなんだ」
座敷童が再び人間に生まれ変わるという話を、稔流はさくらから聞いたことは無い。
過去の記憶を失っていても、《つばき》の強い悲しみと絶望は《さくら》の心の奥底に残り、人間に生まれ変わるのは嫌だと拒んでいたのだろうか。
「それにね、俺は天神様に頼んで、次の母様を決めて貰ったんだよ!」
「お母さんになって欲しいくらい、大好きな人がいるんだね」
「うん!」
三太は嬉しそうに言った。
「狭依が、俺の母様になってくれるんだ。だから、『三太』っていう座敷童が消えてしまっても、俺はまたこの村に帰ってきて、別の名前を貰って生まれてくるんだよ」
きっと、それは十年以上先のこと。でも、やはりそれは三太には長い待ち時間ではないのだろう。
さくらも、そうだったらいいと稔流は思った。
また長い時の中で独りぼっちだなんて、二度とさくらを悲しませたくないから。
「じゃあ、もう行くね」
三太は炬燵から出ると、びょんと身軽に土間に飛び降りた。猫又みたらしも一緒に付いて行く。
「さくらのこと、絶対に見付けてあげてね!」
手を振って、三太は出て行った。
入れ替わりに、父が家に入ってきたので、稔流は今更驚いた。
……そうだ。座敷童は、見えなくて当たり前の存在なのだ。
何も見えないし何も聞こえないのなら、「いない」のと同じだ。――稔流には、そうじゃなくても。
「稔流、そろそろ火葬場に行くよ」
「……うん」
父と会話をするのは、久しぶりだった。
「今年いっぱい、ひいおばあちゃんの家にいてもいい?大晦日まで」
「独りで大丈夫か?」
「大丈夫だよ。ご飯くらい自分で作れるし」
「……そうか。じゃあ、年が明けたら戻っておいで」
――母屋は、俺が戻る場所じゃないのに。
曾祖母と、さくらと、3人で過ごした家が、稔流が戻る場所で、帰りたい家だった。
その事をわかってくれていた曾祖母も、さくらも、もういない。
稔流もまた、この世界から消失する。
「お父さん。育ててくれてありがとう」
父は驚いた顔をした。
「何だ?急に」
「言ってみたくなっただけだよ。……お母さんにも言っておいて。わざわざ言いにくいし」
「わかったよ。きっと喜ぶよ」
それが、稔流から両親への、別れの言葉だった。
別れを口にして初めて、稔流は思い出した。
さくらが『つばき』だった頃、名前を奪われても母親を慕い続けていたことを。
弟を心から可愛がり、愛し守り、弟もまた『つばき姉様』を命懸けで守ろうとしたことを。
さくらの、家族への愛と人間らしい優しい心を想い、稔流は始めて、自分が置いてゆく人々の為に祈った。
(お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも……友達も、みんな、俺を忘れてくれますように)
(俺は、いなかった。俺は生まれてこなかった。……それでも、いいから)
(誰も、俺の為に悲しみませんように――――)
ちらちらと雪が舞う大晦日の夜、稔流は住み慣れた家を出た。
独りで神社へ向かった。……違う、独りじゃない。
「おいで、むすび。一緒にさくらの所へ行こう」
細長い狐がコンと一声鳴いて、襟巻きのようにくるんと巻き付いた。
歩き出せば、厚く積もっている雪が、キュッキュッと音を立てる。
(通りゃんせ 通りゃんせ)
神社への階段を上ってゆくと、遠くから歌声が聞こえた。
(ここはどこの 細道じゃ)
(天神様の 細道じゃ)
空から舞い降りる結晶のように透き通った歌声が誘う。
(ちっと通して くだしゃんせ)
(御用のないもの 通しゃせぬ)
綺麗な歌声に踊るように、粉雪のような光が舞い始めた。
さくらがそうだったように、稔流の体も光の粒に変わってゆく。
(この子の七つのお祝いに)
(お札を納めにまいります)
さらさら、さらさら、光の粒が風に乗り、空へと上ってゆく。
さらさら、さらさら、稔流の形を失ってゆく。
(行きはよいよい)
(帰りは――――)
もう、帰ることはない。
迎えに行かなくてはならないから。
「さくら、待っていて……信じていて。何処にいても、必ず見付けるから。何度でも、さくらの名前を呼ぶから……」
呟きは、風に溶けた。
神社の前には、誰もいなかった。
ただ、無数の光の粒が、さらさら、きらきらと風に舞い、消えていった。