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意を決し、山本さんに連絡をした。
「大切なお話があります。お時間頂けないでしょうか?」
返信が来るまで心臓が張り裂けそうだった。長距離走をしている時の苦しさとは違う。原因の判明しない、未知の出来事に戸惑いを隠せない。それは、山本さんの顔を思い浮かべると、特に悪化した。息をするのが苦しい。
「分かりました。日時、場所は?」
返信が来た時、安堵と緊張感が綯い交ぜになった感情が湧き出た。
ちょっと贅沢なチョコレートと、赤い薔薇を一輪購入した。
約束の日、僕は一時間前に約束のカフェに到着した。何とか、山本さんが来るまでに気分を落ち着けたかったからだ。
なので、山本さんが席に座って、コーヒーを手にしているのを確認した時、絶望した。
「あ、神田君。早いね」
「山本さんこそ、何で?」
「久しぶりに貴方に会うから、緊張してね。おかしいでしょ?」
頬が桜色になって、コーヒーをじっと見つめている。子猫を動画で見ている時に、生ずる反応を、僕はしていると思う。
「座ったら?」
立ち尽くしている僕に、山本さんはそう言った。
「お邪魔します」
奇妙な返しに、彼女はくすり、と笑った。ふざけているつもりが無い僕は、恥ずかしさで紅潮した。こんな僕らの姿は、側から見ると、あおはるなのだろうか。
僕はカフェラテを注文した。
「それで、最近どう?」
山本さんが、探りを入れる様に、質問をして来た。まずい、完全に気を遣わせている。
「ぼちぼちかな。そちらは?」
「現状維持ってとこかな」
はは、乾いた笑いが空虚に響く。話題を出さなければ、と一生懸命になるほど、空回りする。
「「あ、あのさ」」
漫才みたいに、二人の息が合った。
「「お先に」」
「大した話じゃ無いから、山本さんどうぞ」
一呼吸置いて、彼女は切り出した。
「私、留学しようと思っているの」
「おあっ!」
衝撃的な球が飛んで来た。それは僕が何度も練習して来た、今日話す内容を吹き飛ばした。頭がチカチカする。
「いつ?」
「二ヶ月後に春休み入るでしょ?そこから卒業まで」
「そっかぁ」
言葉が続かなかった。なんて彼女に伝えれば良いのだろう。
山本さんは僕の反応を見て、小さく息を吐く。
「それで、私達の関係のことだけど…」
言いにくそうに、切り出す。
「時差もあるし、今まで以上に交際は難しくなると思う。神田君にも迷惑をかける。それで…」
「山本さんは、別れたい?」
首を横に思い切り振る。唇を噛み締めていることを見受けられる。
全身が震えた。緊張で心臓が破裂しそうだ。でも、ここで引いたら、一生後悔する。
「僕も別れたく無いよ。そもそも今日は山本さんに、謝りに来たんだ。僕の態度について。僕はどうやら一人の時間が長すぎて、たまに自分だけの世界に行ってしまう時があるみたいだ。ごめんね。勘違いして欲しくない、君と一緒に居る時間は最高だ。でも、一人の時間も少しは欲しいかな。僕は君が好きだ。これだけは確かだ。たとえ、遠くに離れたって、その想いが変わることは無いよ」
血が体全体を暴れまわる様に、波打つ。体が火照って、溶け出してしまいそうだ。
目の前の山本さんは、顔を覆っている。シミュレーションでは、無かった展開だ。
「あれ、ごめん。失望させた?こんな筈じゃ」
「ううん、違うの」
山本さんは顔を上げる。涙が肌を伝っている。手でそれを拭った。
「神田君。初めてだよ」
「初めて?」
何が初めてなのか、僕にはさっぱりだ。
「初めて、あなたが私のことを好きって、言った」
「あ」
間抜けな単語が口から出る。
「僕は彼氏としては、最悪だね…」
「そうかなぁ」
「うん、そうだよ。山本さんのことよりも、自分のことで一杯だった。ごめん」
真っ直ぐと彼女を見つめてから、頭を下げる。
「ちょ、神田君!頭、上げてよ。周りの人に勘違いされる」
「確かに、連絡を取ることも困難になるかもしれない、だけど、僕は君とこれからも付き合っていたい」
言い終えて、また山本さんを見る。次から次へと、涙が溢れる。
「あれ、おかしいなぁ。涙が止まらない。こんなにも嬉しいのに」
山本さんは泣き笑った。顔をくしゃくしゃにして。それは、とても綺麗とは言えなかったが、愛おしかった。
お互い落ち着いた後、僕は用意したプレゼントをリュックから取り出した。彼女は目を見開いていた。
「神田君。どうしたの、熱でもある?」
「柄にもないけれど、サプライズプレゼント。大した中身ではないけど」
山本さんは丁重に包装紙を剥いで、中を開けた。真っ赤な一本の薔薇とチョコレート。ありきたりな組み合わせだが、彼女はとても喜んでくれた。
「私を想って、プレゼントを選んでくれた、その事実が嬉しいの」
彼女はそうフォローしてくれた。
カフェを出る時には、僕達の間につっかえていたものは、綺麗さっぱり無くなった。夕陽が落ちかけている空は、オレンジ色に染まっている。
「僕、一日のうちで、この時間が一番好き」
「理由はあるの?」
隣を歩く山本さんが、聞いてくる。
「子供の頃を思い出すからかな。ほら、夕焼小焼が流れてさ、また明日遊ぼうって、友達と約束する。子供時代はアウトドアでね、毎日遊んでいたよ」
「もし戻れるとしたら、戻りたい?」
「どうかなぁ。多分戻らないかな」
「それは、どうして」
「過去は美化されるものでしょ。あの時も小学生なりの悩みがあったと思う。今思えばちっぽけなことでもね。やっぱり、思い出は思い出のままにしておいた方が良いよ」
「大人だね」
「そうか…」
言い終える直前に、僕の口は塞がった。山本さんの柔らかな唇が、僕のものと重なり合う。静かな鼻息が顔をそよぐ。僕は驚いて、目を全開にしていた。僕とは対照的に、山本さんは目を閉じていた。唇を離し、彼女は目を開ける。今や、その頬は林檎みたいに赤い。僕も多分そうだろう。先程の感触を確かめるために、自分の唇を触った。
「この思い出、大切にするね」
山本さんは回れ右をして、走り去っていた。僕はそれを、ただ呆然と眺めていた。
夕焼けチャイムが、タイミングよく流れる。僕の為に用意されたものとしか思えなかった。
僕のファーストキス、それは甘酸っぱい味では無い。コーヒーの味だった。