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僕が風間と出会ったのは、大学に入学したての頃だった。
一年生は強制的に、基礎数学を一限に組み込まれるため、当時の僕には苦痛だった。僕の家は、大学から電車で一時間半だったから、サラリーマンと共に、満員電車に耐えなければならなかった。僕はお腹が弱かったので、登戸から下北沢までの十数分間が特に地獄だった。永遠に思える時間の中、お腹はぐるぐるで、手や額からは尋常ならざる汗が出る。僕は何度も願った。
(神様、助けてください。これからは良い行いを率先して行います。だから、どうか、ご慈悲を)
僕は特定の宗教を信仰しているわけでは無いが、お腹が痛くなれば(毎日だが)こうして神に祈った。祈りの対象は、仏ではなく神だった。
幸いなことに、人生で一度も漏らしたことは無い。僕のお腹の緩さを考慮すれば、奇跡としか思えない。だから、神様がいるのだとすれば、僕は大分好かれているはずだ。
どのみち、大半は下北沢か代々木上原で途中下車した。
あなたは、男子トイレの個室トイレに、朝並んだことがあるだろうか。そこには、お腹の弱い人が列を成している。当然一人当たりの所有時間も、昼や夜の比では無い。自分の番を待っている人の中には、苦悶の表情を浮かべている人や、諦めの境地に陥っている人がいる。僕はいつも無表情でいる様に心掛けている。辛い顔やしかめ面は、余計体調を悪化させるからだ。この日は十分、二十分ほど経ち、自分の番が来て用をたす。もうこの時点で、一限の開始時間には間に合わない。
下北沢か代々木上原で再度、急行か快速急行新宿行きに乗車する。代々木上原では、多くのサラリーマンが下車してくれるので、そこから先は楽だった。だんだんとビルが高くなってくる。
ビルの大きさは、都市の大きさと言っても過言では無い。故に、僕は大きいビルが嫌いだった。
太陽から隠れる様に、電車は地下へと潜る。自動ドアが開くと同時に、乗客が芋づる式に、降車する。僕はその流れに逆らわず、無気力で階段へと向かう。朝だから、誰も喋る人がいない。ハイヒールだけが快活に音を鳴らす。
パスモをぽっけから取り出して、改札口を通る。何百回とした作業は、何も考えずとも、体が動いてくれる。
15番線山手線の階段を上る。ふと斜め上に女子高校生と思しき人を確認した。穿いているスカートは短く、無いに等しかった。そういう時、僕がすることは一つ。自分の靴を睨みながら階段を上ることだ。もしその方の下着を見てしまったら、僕は自身に対する失望感と、その方への罪悪感で、身を滅ぼしてしまうと思う。これは紳士的とは最もかけ離れているだろう。
地下から出ると、朝陽が眩しい。目を細めながら、いつもの乗車場所へと移動する。
スマホで時間を確認すると八時五十分。ここから大学に着くまでは、四十分ほどだから、一限が始まって三十分が経過していることだろう。
はぁ、誰にも見られない様に、こっそりとため息を吐く。
アナウンスが流れた後に、電車はやって来る。電車は僕とは違って、遅刻をしないから偉いと思う。まあ、たまにとんでもない遅刻をするけれど、それは往々にして、電車側に非はない。
プシューッ、の音と共に多くの人が車両から降りて、同様に僕を含めた多くの人が乗車する。閉まる直前に、四十代ほどの男性が駆け込んで来た。
山手線から見る景色は、小田急線と全く違う。当たり前だが、興行施設や会社の建造物が圧倒的に多くなる。
高田馬場駅に近づくと、ドン・キホーテが見えて来る。青いペンギンのキャラクターが無機質に笑っている。
新大久保駅に比べて、この駅では多くの人が降りる。自分もそのうちの一人だ。新たに乗車しようとして来る人を巧みに避けながら、これまた長―いエスカレーター待ちの行列に並ぶ。次から次へと割り込みをされて、なかなか前へ進めない。
駅のホームに設置されている、お仏壇の広告をぼうっと眺めて、時間を潰す。
牛歩みたいに進み、やっとの事でエスカレーターに乗る。前と後ろに圧迫感を覚える。
立ち食い蕎麦店、コンビニを横目に、また改札口を抜ける。
大学までは、高田馬場駅から徒歩で三十分かかる。時間に余裕のある日は、ゆったりと散歩をするのだが、とにかく時間が無い。
階段を駆け下りて、地下鉄東西線の改札口に入る。ホーム内、車両の先頭側方面は、尋常で無いほど混んでいる。人混みを避けて、ひたすら後方方面へと向かう。
朝の東西線は数分に一本という、超高頻度で車両がやって来る。それにも関わらず、駅のホーム内は常に人で一杯だ。
暗闇の向こうから、轟音が響く。徐々に輪郭がはっきりとして、普通妙典行きが到着する。既に車内はぎゅうぎゅうである。
自分の体を押し込む感じで、突入する。車内は殺伐としていて、全員険しい顔つきとなっている。後ろから乗車して来る人に押し潰された。前に掛けたリュックが胸を圧迫する。自動ドアが二回ほどつっかえた後に、閉まる。僕は、この地獄の空間から逃れられる様に、目を瞑ってお願いした。
電車が発する音と、乗客の鼻息しか聞こえない闇。一秒、一秒がゆっくりと刻み込まれていく。ありえないが、もしかしたら一生この中に閉じ込められてしまうのではないか、そう思わせる怖さがこの空間には漂っている。
幸いにも、電車の揺れが小さくなっていく。解放されるまで数十秒ということだ。うっすらと目を開けると、流れていく駅名標が見えた。
最後のブレーキがかかり、ドアが開いた。誰も降りようとはしない。必死にすいません、を連呼して、追い出される形で下車した。
もう一限はとっくに始まっている時刻なので、改札口に向かう途中、学生らしき人はほとんどいなかった。
小走りで最後の改札を抜けて、階段を駆け上がる。外へ出ると、涼しい風が吹いてきた。都市の汚れた空気でも、電車内の空気よりかは美味しいと感じた。
細い道を真っ直ぐに進む。左側では新しい大学施設の建築作業が、いつも通り進行している。僕が卒業するまでに、この施設は完成するのだろうか、早足で移動しながら、そんなどうでも良いことを考えていた。
五十メートルほど直進して、角を左へ曲がる。そうすると大学の校門が見えて来る。横断歩道を渡って、門衛さんの横をすり抜ける。大隈重信像の前を急ぎ足で通り過ぎて、所属する商学部棟へと入る。
基礎数学は大教室、501号室だ。エスカレーターを一段飛ばしで駆け上る。
501号室の大扉に到着した時、僕は息を切らしていた。時刻は九時四十五分。もう講義の半分は終わったということだ。
そっと、扉を開けると教授はマイク片手に講義を進めていた。一年生が全員受講していることもあって、空いているスペースはほとんどない。一番真後ろの限られた席を見つけ、音を立てない様に着席した。
もうこの時点でへとへとである。瞼は重く、体はだるい。いつものことだ。満員電車は戦争時に次いで、多大なストレスを受けると言われている。僕はそれに加えて、お腹との戦いもあるので、尚更疲れる。
授業はあっという間に過ぎて、受講生は友達とワイワイ話しながら、次の講義へと向かって行った。僕は友達がいなかったので、全員が立ち去るのを待ってから、行動に移そうとしていた。大学はぼっちに厳しい。
「君、もう今日は授業無いの?」
突如、意識に入り込んだその声は、明るく、愉快なものだった。まさか、僕に話しかけた訳では無いだろうと、最初は気にしなかった。
「ねえ、君だよ」
顔をぐいっと近づけ、目をじっと見てきた。正直に驚きを隠せなかった。大学生にもなって、その様なアプローチを仕掛けて来る人が居るとは。
「あ、僕ですか?」
「そう、名前なんていうの?」
「神田です」
「お、そうか。俺は風間。よろしくな神田」
風間は口角を高く上げて、友好の意を示してきた。
「それで、神田。今日の授業はもう終わったの?」
「いや、次の授業は基礎経済」
風間は手を叩いた。
「お、一緒じゃん。602?」
「そうだよ」
「よかったぁ。知り合いが全然出来なくて、困っていたんだよ。良ければ、一緒に行こうぜ!」
後に分かることだが、彼は誰とでも仲良くなれる、いわゆる社交的なやつで、何故そんな彼が僕に話しかけたのかは今でも謎だ。