ある婚約破棄の一幕
「アルメリア・ラウリーア! 今日、この場を以て婚約破棄する! 貴様のような性悪と――「かしこまりました」なに?」
高らかな宣言、それにかぶせるような涼やかな声。
それまで賑やかだったホールがしんと静まりかえった。
「それではわたくしはこれで失礼いたします、レイネル侯爵令息。バニア男爵令嬢も、ごきげんよう」
「ま、ま、ま、待て! 貴様、何を……」
「? 婚約破棄を受け入れましたので、正式なる手続きをするために両家の間でやりとりもございましょうからわたくしは我が家に戻り、両親にこのことを話し、準備を調えるつもりですが何か?」
何を言っているんだと言わんばかりに、怒鳴りつけられたはずの少女が首を傾げる。
その姿を見て、周囲の人間が固唾を呑むのが見えた。
アルメリア・ラウリーア。
彼女はこの国の辺境を治めるラウリーア家の長女だ。
そして彼女に高らかに婚約破棄を突きつけた挙げ句、あっさりと受け入れられて目を白黒させているのは彼女の婚約者だったレイネル侯爵家の三男レオネル。
更に言えば婚約者を前に別の女を連れている、どう見ても不貞の現場であった。
現場は劇場のロビーである。観劇を終えて人々が歓談する中で起きたそれはまさしく演劇ではなく現実。
この場にいる大勢が、今から繰り広げられるであろう悲劇、あるいは喜劇に胸躍らせて彼らの行く末を見守っている。
「おまっ、お前が! 反省! すればこ、こ、婚約破棄を、撤回してやっても良いと言っているんだ!!」
「まあ」
首を傾げていたアルメリアが僅かに眉をひそめ、困ったように扇子で口元を覆いながら思案するような様子を見せた。
そんな彼女の姿に何を思ったのか、ホッとした様子のレオネルは胸を張って高らかに言葉を続ける。
「お前がカーシャに対して嫉妬からあれやこれやとみっともない真似をしたことはすでに知っている。この場で彼女に頭を下げるならば、俺とて婚約者としてお前の反省を見て」
「カーシャですって?」
「……アルメリア?」
「まあ! なんてことかしら!」
しんと静まりかえったロビーに、大きく発せられたアルメリアの声はよく響いた。
辺境より彼女が王都に来ている理由は、十代の数年間を王都の学院にて学ぶべしと貴族法で定められているからだ。
それは領地を超えて婚約関係にある者、或いはこれから婚約関係を築く、友情を育むなど王国貴族の縮図とも言える社交場なのだが、その中で彼女は美声を持つ才女として有名である。
そのアルメリアの声はこの場にそぐわぬほど美しく、パチンとそれまで持っていた扇子を閉じて艶然と微笑む姿はさながらオペラ歌手かのようであった。
「バニア男爵令嬢のことをそのように愛称でお呼びになるだなんて、随分と親しいのですね」
「……アルメリアっ、ゲスな勘ぐりはよせ! そういうところが貴様は……!!」
「そ、そうですアルメリア様、わた、わたしはただ、レオネル先輩に相談をしていただけで……」
それまでレオネルの陰に隠れるようにしていたバニア男爵令嬢と呼ばれた少女も慌てたようにそこから顔を出した。
だが、既に周囲の目も厳しいことに彼らはまだ気がつかない。
この国の貴族作法において、愛称を呼び合うのは愛し合う関係、もしくは家族。
それが一般常識なのだ。
例え学院内において性別を超え親しい友人となったにしろ、節度というものがある。
彼らはそれをまるっきり無視していると自分たちで宣言しているのだ。
そもそも、婚約者がいる前で別の女性をエスコートし、なおかつ公の場で婚約破棄を高らかに宣言するなど正気の沙汰ではない。
衆目の認めるところである。
醜聞。人の不幸は蜜の味。
そういったものから野次馬としてこの婚約破棄騒動を見守っている人々ですら度が過ぎれば嫌悪感を抱くものなのだ。
「ですがわたくしはバニア男爵令嬢と学年も違いますし、挨拶をする程度の仲。ましてや嫉妬で嫌がらせですか? ……ありえませんわね」
クスクスと笑ったアルメリアは慈母の如く優しげな笑みを浮かべたまま、再び小首を傾げて見せた。
「よしんば、わたくしが嫉妬するほどレイネル侯爵令息をお慕いしていたとして、婚約者がいるのに近づく女性を排除しようとするのは当然のこと。誤解を招く行動をしておられると自覚がないのが一番の問題では?」
「貴様ッ……アルメリア、お前のそういう可愛げのないところが……!」
「それに加え、このような場で無作法なこと。もっと別の場所で話し合いをするなどお考えになりませんでしたの? 周りをごらんくださいまし」
その言葉に彼らもようやく自分たちが置かれている状況を理解したらしい。
慌てた様子で周囲を見回し、何事かゴニョゴニョと言い訳めいた言葉を吐いたかと思うと身を縮めて早々に退出していったのである。
そんな彼らの背に嘲笑が追い打ちのように浴びせられたが、彼らは振り返ることなく去って行った。
当然ながらその後もロビーはこの話題で持ちきりとなり、やはり居心地悪そうに一礼して去って行ったアルメリアに対しては同情めいた声が向けられた。
この醜聞騒ぎは当然あの場にいた人々の口からまた別の人の口へと上り、城下にいる貴族だけでなく周辺の一般市民にまで知れ渡り、彼らは一躍時の人となってしまったのである。
愛憎劇が、愚かなカップルの不貞と哀れなる辺境伯のご令嬢が、婚約の行方は……人々がそういった話題に花を咲かせる中、とうとうそれは王の耳にまで届いたらしい。
このような醜聞を起こされてはたまらないとそれぞれ当事者たちの親が王城へと招かれ、この件について処分を決めたのである。
「俺は! 婿入りするからって下に見られたくなくて……!!」
「馬鹿もん! 婿に行く前から愛人同伴にするために愚かな真似をしおって……!!」
まずレオネル。
彼は辺境伯の長女であるアルメリアに婿入りすることが決まっていたため、学業にも大して熱はなかった。
だが無駄な矜持から王都にほど近い位置に領地を持つ侯爵家は辺境伯よりも優れているなどと考え、婿入りした暁には自分が辺境伯として指揮を執るつもりであったということが発覚。
その考えを聞いて彼の父である侯爵が眩暈を覚え倒れかけ騒ぎになったが、終わった後も血圧が案じられる程顔を真っ赤にして怒りっぱなしである。
どうやら婚約破棄を突きつければアルメリアが泣いて縋り許しを乞うに違いないので、そうすれば愛人を連れて行っても円滑にことが進むだろうと思っていたそうだ。
何故親の決めた許嫁であるアルメリアが、彼に一目惚れして心底惚れ込み婚約を申し込んだことになっているのかは侯爵にもわからないらしい。
次にカタラシア。
彼女は努力しても学業やその他、身につかないタイプの女性であった。
努力そのものはしているのだ、だが何をやっても上手くいかず、終いには教師にも匙を投げられる程であった。
だが彼女は大変見た目に優れた女性であり、守ってあげたいと思わせる雰囲気を持っていたのである。
結果としてレオネルが支えるという名の体の良い『都合のいい女』として扱ったわけだが、彼女はそんな男の欲望など気づかず『親切な先輩』に対して恋心を抱き、今回の件についてレオネルが望むままに行動したということだった。
「なんということだ、分相応という言葉をきちんと理解しろとあれほど……ああ、カタラシア……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……!!」
嘆くばかりでそれ以上の言葉もない娘に、男爵もまた二の句が継げないようであった。
愚かだが可愛い娘、貴族法の義務が終わった後には同じ程度の爵位か或いは裕福な商人とでも縁を持ち、穏やかに暮らしてくれればと願う父親の気持ちは叶わないようであった。
「あら、まあ」
アルメリアはその場に呼ばれなかった。
彼女には何の問題もなかったからである。
実際に学院でカタラシアを虐めたかどうかという点については、注意をしたと言う程度のものであったし、証言者も大勢いる。
実を言えば、この『婚約者からの注意』も含め、学院ではよくある光景なのだ。
レオネルとカタラシアのように非常識な振る舞いは、実は珍しくない。
結婚まで期間の短い最後の自由期間、そう捉える若者は少なくなく、それを咎める者、諦めて自由にさせる者、一応表向き注意だけして後は放っておく者……対応は様々だ。
それこそ今後の長い夫婦生活を考えればこういった問題はどこかで出るかもしれないし、これも良い経験の一つと呼べるのかもしれない。
だが、この〝自由期間〟でその枠を超えた振る舞いをする者が何年かに一度現れるのも事実だ。
今回の二人のように。
そうなると、頭が痛いのは保護者である。
多少のそういったオイタは一種の風邪のようなもの……そう考えれば後々『若かったから』などと笑い話に出来るのであるが、大いに道を外れれば笑えるものも笑えない。
「あらお嬢様、どうかなさいましたか?」
「ええ、城下で新しい演目が出たらしいの。人気が出たそうだから、いずれ辺境にも巡業が来てくれるのだそうよ」
「まあ! どのようなものでしょう」
「身分違いの恋をした若者たちが婚約者の令嬢に別れを告げて、駆け落ちをする物語だそうよ。婚約者は泣く泣く彼らを応援し、市井に下る彼らを手助けして各貴族家を説得して回り、恋人たちは彼女に感謝して幸せになるんだとか」
「まあ、ロマンチックですこと」
「そうね。本当にそう思うわ」
無邪気に笑う侍女に、アルメリアは笑みを浮かべた。
彼女が語った内容こそが、レオネルとカタラシアの末路だ。
彼らが幸せかどうかなんて、アルメリアにはわからないが、貴族として豊かな暮らしに慣れている彼らに、市井での暮らしができているか見物である。
そう思ったが楽しそうにしている侍女にそんなことを言うほど、彼女は悪趣味ではない。
アルメリアは新たな婚約者を得た。
国王の推薦した、近衛隊の若者であった。実直で、華やかさこそないものの誠実な、子爵家の次男だった。
彼は近衛騎士という立場を捨て婿入りすることになると知っても嫌な顔などしなかった。
「民を守る立場、そうありたいがゆえに騎士になりました。辺境の地であろうと、それは変わりません。……むしろ、未熟者でありますが、より一層励みたいと思います」
そう言って笑った彼に、アルメリアは今度こそ良き関係が築けそうだと思ったものである。
よくある話、という話を書いてみました!
いやあ、結構難しい……