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―忘却の旅一章。 “遠い昔から言い伝われる古くて古い猫物語”

作者のナシエです。小説ともどもよろしくお願いいたします。

猫には九つの命がある。その命は生が尽きると共に天に戻らず地上へと巡回する。


一つの命を落とした猫は自分を覚え、

二つの命を落とした猫は人を憶える。

三つの命を落とした猫は漸く人の言葉を覚え、

四つの命を落とした猫は感情を覚え始める。

―一番目の感情を喜びと。

五つの命を落とした時得るそれを悲しみと呼び、

六つの命を落とした時、嘆息を、

七つの命を落とした時、遺恨を、

八つの命を落とした時、復讐を、

そして、九つの命を落とした時、初めて許しを学ぶ。


それ即ち九猫(きゅうびょう)と称する。



2017年8月。じっとしてると脳がどろどろと溶けてしまいそうだった真夏の日。

丁度お盆を迎えようとしていた一時の、カゲロウのような出来事。

奇しくも出会ったとある縁。

不思議な物語の片鱗が語られる。

それをここで眺める。


/1/


朝からずっと流れてるアナウンスの清らかな声が部屋全体に広がっていく。

まるで山の川を連想させるほど涼しく、風鈴のような声が徹夜で未だ目覚めてない意識に流れ込んだ。

おかげで涼しくなった錯覚に溺れた。

日頃のくせでもあるが、クーラの代わりのつもりでつけておいたニュースでは天気予防と熱中症の対処法について話している。


最高気温40度。

強烈な直視光線。


今日もここ花雪(はなゆき)市は熱い。あ、いや。厚い。


この市の名前で花と雪の字が使われるようになったのは、季節の境界が鮮やかな昔、四季の街並みが綺麗だと噂されたからだそうだ。

季節が変わるたび、季節の移りを堪能する目当ての観光客で街が盛んになってからつけられたという話だ。


その名の通り、ここ花雪市には他の県や国で季節の趣を味わうために毎年沢山の観光客が訪れている。

(市役所で広報パンプレットを見たことがある)

しかし、地球温暖化のせいだろうか、今年の夏は少々鮮やか過ぎる気がする。

最高気温40度。不快指数最高...。


僕の今日は、一日中猛暑だという知らせで始まった。


「はぁ、気が抜けるなぁ」


こんな天気に出勤してたら、やる気なんて出るのが可笑しい。

でもそろそろ気直さないと...。

一時の気分でやめたら後で避けられない徹夜が増える。

大きく深呼吸して、疲れを追い払う。


規則的な音を鳴らし、止まっていた指がまた動き出した。


この姿を誰かが見たらきっと職業意識が高いと賞賛を惜しまないかもしれない。だが、それはとんでもない勘違いだ。

これを原因を探れば、長年ダメ人間たちと一緒に働いていたせいだろう。

少なくとも三人しかいないこの会社に真人間は僕だけ。残りは後のことなんて考えず一時の気分で動くタイプだ。

そんな人と一緒にいたら、僕しか働かない環境にいるとしたら、ない責任感も沸くものだ。

だから今この理不尽な仕事をやってるのもその責任感のせい。

まぁ、働く理由など何でもいい。理由が何であれ、どうせ僕は働くから。



蝉の鳴き声。汗が落ちる音。キーボードを叩く音に満ちた事務室。

当然と言えばそうだが、夏にはこういう生活音が日常だ。


窓の向こう側から染み付く熱気に溶けてしまいそうな衝動に取り付かれながらも、僕の中に眠っている生存本能が僕を引いてくれる。


ちらっと横を見たら見えるのは、山ほど積もっている書類たち。


‘早く働け!’‘手が遊んでるぞ!’‘寝るな!’


書類の心の声が聞こえるような気がする。


朝から晩まで一睡もせず何日もやってるが、書類は減る気色すらない。

とんでもない量だ。自ずとため息が唇の合間から漏れてきた。

「はぁ、暑いなぁ。熱いなぁ。厚いなぁ。全部アツイなぁ!」

流れる汗を拭いて周りを目を向けても見えるのは大騒ぎになった事務室の有り様。

また息が苦しくなる。


高級マンションを事務室に使う贅沢三昧にふけたのはよかったが、ここの実相は過多な業務が続く徹夜戦線。

おかげで掃除をする余裕もなく、部屋は日々汚くなって行く。

あちらこちら紙たちがほったらかされているし、作業中のテーブルの上には処理を待っている書類たちと食べ終わった皿が放置されている。

無論、僕が食べたものではない。僕なんか、食事の時間もなくてカロリバーとスポーツドリンクだけだった。


この家は普通なら四人で余裕に暮らせる。多くは六人まで受容できる広さだ。その広さが今、書類とゴミで余計狭く感じられる。


生温い空気を肺に閉じこんで、大きく吐く。それを数回繰り返す。

こういう時だからこそ息を整って心機一転していどむ。


「はぁ...」


天性的に汚いのは我慢できない。汚れた部屋とかを見るとなぜか片付けたい欲求が沸いてくる。


社畜根性を持ってる自分にため息一回。


「はぁ...」

その哀れな自分にため息一回。


そして悟った。


この中にはどこにも逃げ場がない。

どこに目を逸らしてもやるべきことだらけ。

掃除。書類。掃除。書類。


仕事: 至急送らなきゃいけない書類がこれから山五個分。

掃除: 至急やらないと汚さで僕が先に爆発してしまいそうだ。


「ああ...ああ...!」

悩んで5分も経ってないのに早くもしゃくの虫が起こった。

結局掃除も仕事も、何一つ満足に済ませないまま僕の目が最後に到ったところは事務室の天井。

天井に向けただただ叫んだ。今はただただ叫びたい気分だ。


暑さでいよいよ頭が饐えてしまったのか、もうなにも考えたくない。

天井はいいな。何もなくて。


忘れようにも忘れられない、この馬鹿げた書類侵略事件の顛末はカゲロウのごとく目の前で揺られる。

ことは数日前に遡る。



まず、僕の名前は清雨(きよあめ)(じん)。このブラック‘会社’で働いてる17歳の平社員だ。

ちょっと複雑な事情があって、生まれてから学校の代わりにここで世話になってる。

先ほど‘会社’と言ったが、やってることは‘常識’とは程遠いことだらけだ。


然れば、今この常識を越した書類の正体がなんなのかっていうと、これまで‘会社’で使用したお金が果たして正当な理由と方法で執行されたか否かを証明する書類。

いわゆる緊急監事だ。


‘会社’での僕の仕事は主に行政事務。


一応、関連の書類はおおむね記録して置いたが、さすがに詳しくは書かれてない。

そもそも昔にはレシートとか、口座の写真とかを添付することで終わる作業だったし、不思議な話だが、使用理由は適当に書いておけばなんとかなった。


事情が変わったのはこんな適当な仕事ぶりのせいで問題が生じてからだ。こっち(会社)ではなくあっち(本社)の方で。


ある日突然、


“あなたは前回このような理由で‘会社’の公金をお使いましたが、はたしてその事案は‘会社’のお金を使うのに相応しいことでしたか?”


という内容にメールが送られたとして、今まではそれを考慮に入れずに仕事をしても問題がなかったとしたらはたしてどういう光景が広がるだろう?


その答えが今この書類の山だ。


要するにお金の内訳と共に使用の理由を報告しろって話だ。

今の作業は全部あの一つの質問に答えるための旅道。


にしても今回は期限が短すぎる。‘本社’もうちの‘会社’の人員が少ないのは知っているはずなのに。

「もしかしてうちの支部嫌われているのかな」

心当たりが多すぎてどれなのか検討もつかない。


「‘本社’からの至急品を壊したり、私的財産に損を負わしたりしたから嫌われても言うことなしか」

よく思えば、ここの‘会社’は小人数で運営されているにしては金遣いが荒い。疑われても当然だ。


一年ほど前のできごとだが、新築の建物1棟が崩壊した事件があった。完工後には有名な飲食店とかが入る予定だったから崩壊は世間で大きく話題にだった。ここまではただの事故の範疇だが、問題はここに関わっていたのがうちの‘会社’の社員。崩壊に直接な原因を提供してしまったのだ。

当時の被害賠償額は‘本社’の中で史上最高を更新したとか。

その時逮捕されなかっただけでも感謝すべきだ。

本当に不幸な話だ。

あ、不幸はもう一つあったっけ。


昨日、今日もよろしく頼むと言った戦友が倒れた。


反射的にクーラのリモコンを押していたら反応がないのに気づく。


「あ、昨日壊れたっけ」

よくぞ戦った。

去年も、一昨日も。人を蒸し殺す猛暑に立ち向かい、僕と共に戦ってくれた数少ない戦友。

聞くだけでもありがたいその名、クーラ。

願わくば、そこではこんな酷いブラック主じゃなくて、ホワイト主に出会え。

ピピピピピピ。

「......」

必死のCPR(リモコン連打)にも死んだ戦友の心臓は戻らない。


この燃え盛る炎天下。数日間相次いだ徹夜+猛暑+クーラ故障。

もともと然程運がいい人生ではなかったが、とうとう神様に嫌われたみたいだ。


掃除か仕事か悩んでいる間、もう一人の社員が帰宅を知らせた。


「ただいま」


玄関の方でドアが閉ざされる音と馴染みの足音が廊下に響く。

この暑さにも一切冷めてない声。聞くだけで凍えそうになる氷点下の音色。いつもなら気が縮むかもしれないが、今は冷たいものならなんでもよかった。


......あれ? もしかして僕、到頭頭がいかれたのかな。


リビングのドアが開かれ、視界の片隅からどんどん彼女の姿が大きくなった。この惨状を見て彼女が放つ最初の言葉は…?


「......砂漠体験?」

「そんな奇妙な趣味あるわけないでしょう、(あかね)

「じゃぁなにここ。なんでこんなに息苦しく暑いの?」

顔を顰めながら僕に聞いても、正解は僕にない。

疲れて力も入らない肺に無理やり息を詰め込んで声を絞る。

「僕が運が悪すぎて、かな」

短く答えた後、テーブルの下にある扇風機の電源をONにする。

モーターが回る音と共に生温い風が足に張り付いた。

……。

やはり扇風機だけでは無理だ。この砂漠で生き残れない。

「運? なにそれ」

まるで不運が理解できないという台詞。


ああ。今の答えで納得した。


僕が不幸の神に愛されているならこの子、神下(かみした)(あかね)は幸運の女神に愛されている。おおげさかもしれないが、彼女は基本的に運など信じない。そういう天性が神の目に入ったんだろう。

そういう彼女だからこそ、運なき人生がどういうものなのか解せないのも同然だ。


「壊れたんだよ、クーラ。昨日つけてみたら全く反応しなかった」

ものはいつかつきる。当然だ。だが、なんでその日がよりにもよって真夏の日で、猛暑警報が出た日で、急な仕事が積もった日になったのは全く偶然。

「故障? 買ってからまだ一年もなってないでしょう?」

それは僕も疑問だが、故障の原因を探しても死んだクーラは戻ってこない。

修理は専門外だし。結局適当に答えるしかなかった。

「さぁね。結構遠慮なく使いまくって寿命が減ったのか、それとも夏の熱気でこいつも頭いかれたのか。兎に角天寿全うした」

事情を全部聞いた茜は厭きれたのか、それ以上は何も聞かずため息と共に厨房に消える。

厨房では冷蔵庫のドアが開かれる音と、液体がゆっくりと落ちる音がした。

なんか飲むのかな。いいな。僕のもあるかな。



-今入ってきたあの鋭い感じの女の子は一緒に働いてる僕のパートナだ。


神下・茜。丁度一年前に他地にある‘会社’からここに転職した社員で、ここでは僕の業務パートナで色々と世話になってる。

この‘会社’の社長である雪華(せつか)先輩の誘いでアイルランド支部から日本、花雪市支社に来たという話だ。


茜と出会ってもう一年か。本当に光陰矢の如しだ。


「へぇ~。頑張ってるね」

仕事を再開して数秒。

冷蔵庫の飲み物を注いでいるはずの茜がいつの間にか隣に来てパソコンのモニターを見ていた。

予想外の声と香りに一瞬慌てて少し身体を仰け反ってしまう。

今日初めて彼女の姿をちゃんと見ただんが、驚愕した。

「あ、茜、何着てるんだ!」

「何?」

「この季節に黒いローンコート...死ぬぞ」

正気か。熱中症で死ぬぞ、あれは。

「そういえば昔から疑問だった。茜、季節とか天気などお構いなしにそれ着てる理由」

「なに馬鹿なことを言ってるの? 守りもなしに外を歩き回ったら死ぬよ、ジン」

守りに、死ぬ。てことはあれは...

「この服は魔防(まぼう)材質でできてるから出かけるとき着るのはこっち(魔術社会)の常識でしょう? 天気なんかなんとかできるし、命とは比べ物にならない」

先までキーボード叩いたせいか、今更だがいきなりこういうオカルト的な話を聞くと、僕がいる世界が実は‘魔術’と‘非常識’で満ち溢れている世界だと自覚される。

「今まで着てたくせに気づかけかった?」

「‘本社’の指定ユニフォームとかでも思った」

そういう理由なら開発者に何で夏専用がないのか問い詰めたい気分だ。

性能は考慮に入れたくせに実用性は後回しか。

「魔術がどうとかって言われてもまだ実感はしないがな」


-今この世界は科学社会と魔術社会に切り分けられている。前者を一般とすれば、後者は特異と呼べるだろう。

名前でも解るが、魔術社会はつまりオカルト的な要素で満ち溢れている場所、魔の力を操るものらは全て魔術社会に属している。

僕も最初は半信半疑したが、実際に体験してしまった以上は信じないわけにもいかない。

と言っても僕も魔術社会に関しては詳しいわけでもない。

僕や茜は魔術社会の中でもやけに特殊なケースだ。

特に僕はオカルト的なもので命に関わる事件にあったことがそうなくて、現に見たとしてもそれをすぐ自分の生活に取り入れるわけではない。


「そんなあやふやな態度を取り続けるといつか危ない目にあうかもしれないよ。不思議なものなら見えない鞭とか、変な消し方をしている人とか、色々見たでしょう?」

「存在そのものはもう疑わないが、夏にそんなもの着れない」

まぁ、普通はこう思うのが当然だが、既に魔術社会に完全に溶け合っている彼女は理解に苦しむ表情をした。


一つはっきりと言えるのは、こっち(魔術社会)の常識が必ずしもあっち(科学社会)の常識と噛み合ってるとは言えないことだ。あの季節外れの黒いコートが証拠と言えよう。

常識的にこんな真夏に誰があんなのを着て歩き回れるか。


「その仕事、まだやってるの?」

「結構量があってな。中々納まらない」

「適当に済ませば? どうせ上層部の連中、まともに確認もしないと思うよ」

すらりと、僕の働きぶりを見た茜が無責任なことを言うが、そういうわけにもいかない。

「今まで適当にことを済ませて来たからこの騒ぎになったのに、上の連中も今回は細かく確認するだろう」

「話は聞いた。馬鹿な話だよね。後始末費用の横領だなんて。一体どこの‘会社’なのかしら」

「まったくだ。よりにもよって‘本社’相手に金銭騒ぎを起こすだなんて」

そいつはよっほどの馬鹿だ。きっと。

「‘本社’って金には敏感だったっけ?」

「その割には管理が適度になってたから自業自得。今回はその怒りを関係のない下に解いているのよ。あのけちな会社」

けちには同感だが不満があるのは‘本社’だけではない。

茜にも言いたいのは沢山ある。


「君も君だ。建物1棟を壊しあがる女がこの世にいると思う?」

以前からそういう感覚が薄いとは思っていたが、まさか建物まで壊すとは。

「誰かさんが完工前の建物を派手に壊してくれたおかげでうちの‘会社’は特別監視対象になった」

少しは気が咎めてほしかったが、僕の会心の嫌味を茜はなんともない顔で打ち返した。

「ああ、あの一年前の建物ね。覚えてる。印象的だったから」

印象的? そんなに立派なものだったのか? あのビル。

「デザインもダサいし、資材も安物。設計も出鱈目。壊さない理由を探すのが難儀なくらいあれは生かしておく価値がなかった。いつ弾けるか解らない爆弾を解体してあげたから、むしろ感謝でももらいたいね」

デザインはどうでもいいが、資材と設計に問題?

それは初耳だ。そんな情報聞いてないぞ。

「ジン。そんな地震にも持たない時限爆弾を無償に消してあげたんだよ。その結果建物が崩壊してしまったけれど、仕方のない犠牲とは思わない?」

まさか茜。だからあの時あそこで暴れたのか。万が一壊れても文句言わせないために?

用意主導な性格ではあったが、ここまでだったとは。


真夏の熱気の中でも相変わらず端麗な茜の顔が、今日は一層すごく見えたり、綺麗に見えたりした。幻覚ではない。

冷たく鋭利な風趣はいつもと変わらないが、日差しの強い日が続いても少しも日焼けない肌は以前と同じように純白。


違いがあるとしたら髪が腰まで長くぶら下がれている点くらい。

髪形を変えるくらいの暑さではあるようだ。

「過ぎてしまったことにどうのこうの言わないで、ジン。男が廃ってしまうよ?」

どうせいいところ見せてやりたい人もいないし、余計なお世話だ。

「それで、あれの修理はいつ?」

「一応電話しておいたが、丁度開いてる手がなさそうだ」

時期も時期だし、しょうがない。

「連休の間には残念ながらにも営業なさらないんだって」


そう。こんな天気に故障したのも腹立つが、その日がまさかお盆と重なってサービスセンターは休日。

僕の悪運物語に満足したのか、興味が消えた顔で茜はまた厨房に入ってしまった。

先と同じ、冷蔵庫が開かれる音と共に今度はビニールの音がする。

食べるのはこの前買っておいたアイスか。想像しただけでも身体の温度が少し下がった気がした。

しばらく経ったら口にアイスをくわえた茜が厨房から現れる。

「そうだ、ジン。あなたに聞きたいことあった」

珍しいな。質問役は僕で、億劫しながら答えてくれる役は茜だったのに。

「何?」

椅子に座ったままなので茜を見上げる姿勢になっていた。 途中でかけている眼鏡がずれてしまいかけ直す。

かけ始めたばっかでまだ慣れてないんだ。

「聞かないつもりでいたけれど、ふふ。ジンの悪運があまりにも印象的だったのでね。ただ過ごしたら何がやらかしそうだ、あなた」

だから、なんでそうからかうような笑みで言うんだよ、お前。

「ジン、ひょっちして最近猫拾ってきたことある?」


猫?


いきなり話題が可愛い系に向かう。

「いや...ないが...。何? 猫飼いたいの?」

こういうマンションなら本来、ペットは禁止のところが多いが、ここは僕たち以外には誰も住まない。憚ることはない。迷惑になる人自体がいないんだ。

「いいえ、その逆よ。拾わなかったならいい」

「逆?」

その言葉の意味を理解するも前に茜は強い口調で釘を付けた。

「念のために言っておく。ジン。猫拾って来ないで」


夏のある日、突然厳しい顔をした同居人に猫禁止された。お母さんか。


「わ、解った。子供でもあるまいし、別にペットにロマンがあるわけでもない」

色々疑問はあったが茜に逆らったら後のことが怖い。

僕の返事に満足したのか、彼女は事務室から背を向けようとした。

ソファに脱ぎ捨てのコートを持ち上げる。

「ならいい。私の用件はこれでお仕舞い。お仕事頑張って」

爽やかな別れの言葉と共に彼女は家に帰ってしまった。


玄関のほうから門が開かれ、閉ざされる音がして、日頃の静けさが降った。


一体なんだよ。猫禁止は。


茜が去ってから疑問と静けさが部屋の中を漂う。


いや、そう思ったら一瞬の静けさも許さぬ勢いで蝉の音が室内を埋める。

話しながらしばらく忘れていた熱気がまたやってきた。

燃えそうな感覚に再び襲われる。


まだ仕事は終わっていない。

溶けてしまいそうな極限の熱気が全身を庇い、脳に至ろうとしていたその時、手の甲に触れた冷たさにびっくりし、垂れた頭を上げる。

「これは...」

さっきまでは何もなかった手の隣に、いつしかハーゲンダッツ・抹茶味が置かれていた。

犯人は言うまでもない。

「あいつ...」

彼女が置いて去ったアイスはもう水玉がぼろぼろと落としていた。でもまだ冷たかった。

茜なりの応援かな。それに身体の熱が冷めていくのを感じる。


ハーゲンダッツに置かれた水玉が流れ落ちる。

なんだか口元に自ずと笑みが宿った。


せいてはことを仕損じる。

残りの仕事はまだまだきりが見えないが、アイス一つ食べれるくらいの余裕はある。

あれをやっつける次第また取り掛かろうか。


ありがとうございました!

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