file07 『新たな被害者』
獣は私にも手をあげた。腹部と頭部に鋭い痛みが走った。獣の酒臭い息が、荒く聞こえる。女は獣から、私をかばった。泣きながら、私をかばった。泣くくらいならばかばわなければ良いのに、と私は思う。
獣は女に標的を移し、女が殴られる。私をかばえば、自分が殴られることなど分かり切ったことだろうに。どうして、女は自分の身を顧みず、私をかばったのか、どうして、私を置いて逃げないのか、分からない。
どうして、私をかばうのか、分からない、幼い私にはなにも分からない。
童顔警官の指さす方向を、二人は目で追った。首を回しその方向を見ると、ひと際多くの人々が輪になって立っている一か所が見えた。
あの輪の中央にその被害者がいるのだろう。二人は童顔警官に一礼して、輪の中に分け入った。人の熱気で輪の一帯だけが、数度気温が上がっているように感じる。
やっとのことで、中央までたどり着いた。みんなに取り囲まれて、一人の男が中央に座っていた。その男は頭と右前腕に包帯を巻いている。白い包帯は血で真っ赤に染まっていて、今すぐでも包帯を変えないといけないぐらいだ。
見るからに痛々しく、歩くことができそうもない。この人が怪物に襲われた、という人だろうか。いや、この人物が百パーセントそうだろう。
短髪の白と灰がかった、太い髪は艶がなく泥で汚れていた。顔には深い皺が刻まれていて、聡明そうな瞳は猛禽類のように鋭く光っている。
バートンとキクマは被害者の下へ歩み寄り、男を俯瞰する。男は鋭い視線で、バートンとキクマを見上げた。男は何気なく見上げたつもりでも、この男に見つめられると威圧感が否めない。
「お怪我は大丈夫ですか?」
バートンは気づかわし気に、質問した。本当はもっと先に聞きたいことがあったが、この状況だと先に気遣うのが筋だろう、とバートンは思ったのだ。
男は誰だ、と言う目を二人に向けるので、「あ、ごめんなさい、僕はこういう者です。そしてこちらは僕の上司です」とバートンは慌てて答える。
懐から刑事手帳をだして、キクマを紹介した。男は、「バートン」と小さくつぶやいて、バートンの名前を咀嚼するように唱えた。そして、「そちらの方は?」と続けてキクマを見た。
「キクマと言います。あなたのお名前は?」
キクマは軽く頭を下げて、応じ、質問を返す。
「キプス・リトスと言います」
キプス・リトスと言う名の男は不機嫌そうな声で答えた。バートンはもう一度問う。
「お怪我は大丈夫ですか?」
するとキプスは自嘲気味に、「大丈夫に見えますか?」と鼻で笑う。
キプスは皮肉りに答えた。明らかに大丈夫には見えない、なのに聞いたバートンが悪いのだろうか。
いや、この状況なら、体を気遣うのが礼儀だろう、とバートンは自分を正当化した。それを見ていたキクマがバートンをフォローするように話に割り込んだ。
「部下が失礼なことを言い、申し訳ありません。確かに大丈夫には見えません。深くお詫びします」
謝罪を聞きキプスは、「こちらこそ、申し訳ない。気が立っていたもので、強く当たり過ぎました」と己の失態を認めた。
キプスは自分の腕の怪我を見ながら、キクマとバートンに改めて向き合った。思っていたよりも話が分かる人なのかも知れない、と思える発言だ。
バートンはもう一度キプスの前腕を見た。包帯を取り替えないと前腕は、血で染まり切って、包帯に吸引力がなく、血が少しずつ、ぽとぽとと滴り落ち始めていた。
「その怪我は怪物にやられたのですか?」
キクマは真っ赤に染まった、包帯を指さして問うた。
キプスは視線を血で真っ赤に染まった、包帯に向けて、「ええ、気味の悪い、獣に……やられました」と考え深げにいった。
「怪物ですか……姿は見ましたか? もし、見たのなら、教えてください」
襲われたのだから、姿を見ていて当然だ。
キプスは皺の深い顔をさらに、深くし、影を落としす。
「見ました……あれは化け物です。……大きな体、針のように硬い体毛、鋭く長い鼻。一見狼です」
とキクマの顔を真正面から見つめ、「今朝狩りをしに山に入り、鹿を取りました。帰ろうとしたそのときです、突然樹の陰からそいつが現れたのです。私は反射的に右手を盾にして、急所である首をかばいました。あの獣は頭がいい、人間の急所がどこであるか、知っている」
ひと呼吸おいて、
「怪物は私を倒し組み引きました。私は地面に頭を強く打ってしまい、朦朧とする意識の中、手に持っていた猟銃で化け物を撃ったのです」
キプスは左手を銃の引き金を引くように絞っていった。そして、「バン!」と擬音をだして、ジェスチャーで状況を教える。
「怪物を倒したのですか!」
バートンが興奮気味に二人の話に割って入るが、キプスは大きく首を振って、「いえ、殺すことはできませんでした」と、申し訳なさげにいった。
「だけど、腕に噛み付かれているほどの近距離だったんですよね」
バートンは思っていた疑問をぶつける。
「はい、だけど、狩りが終わったら弾丸を抜くんですよ。だから空砲です」
「あー、……そうなんですか……」
バートンは露骨に気が沈んだ。キプスは機嫌を悪くした様子もなく、話を続ける。
「化け物の顔面に銃口を押し付け、引き金を引きました。すると、その化け物は犬のような甲高い声で鳴きました。キャイーンっと。犬は耳が良い、あんな近距離で空砲を喰らえば鼓膜が破れていますよ。
そして、化け物は困惑気味に逃げていったのです。私は助かりました……」
もう一度キプスは自分の腕を見下ろし、額の包帯を触った。キプスの指には、包帯からしみ出した血液がべっとりと付いた。
「すごい、血ですね。もしよろしければ、包帯を変えましょうか?」
バートンの提案にキプスは、「ええ、お願いします」と答えた。言ったはいいものの、バートンもキクマも包帯など持っていない。仕方なく、キプスに訊く。
「ごめんなさい、包帯は持っていますか?」
けが人に、包帯を持っているか、訊くのも失礼な話だろうか。キプスは警察官が巻いてくれた、といっていた。つまり、警官の誰かが、今も包帯を持っている。
そう考え、バートンはさっきの童顔警官の元へ向かい、包帯を持っているかどうか、訊くことにした。今さっきと同じ場所に、童顔警官はいた。
「あのー、包帯って持ってますか?」
とバートンは童顔警官に問う。
童顔警官は爽やかな顔で、鑑識官が包帯を持っていることを教えてくれ、バートンは鑑識官の元へ向かう。
たらい回しに鑑識官の元へやってきて、包帯があるか訊いた。しばらく、待っていると、鑑識官は包帯を持ってきてくれ、バートンは包帯を受け取り、戻った頃には十分近く経っていたのだった――。