case46 例えば、連続殺人鬼なんかを捕まえたとする
ジョンはレムレースと別れたのち、家に帰ってきた。こうしてゆっくり食事をとるのは久しぶりな気がした。
ここ数日ろくに戻らず、キクナを心配させてしまったのだ。しかしキクナはどうして戻らなかったのか、を問いただすことはしなかった。
キクナが作った、ミートソースパスタを一口大にフォークで巻き取り、ジョンは食べた。感想として、とても美味しい。それ以上の感想が見つからなかった。
だから正直に、「美味しいよ」というのだが、その言葉だけでは申し訳ないような気持ちになった。
しかし、気の利いた感想が見つからないので、口をつぐんでパスタを食べるにとどまった。
いつもならキクナが延々と話をして、ジョンが相づちを打つというかたちで、賑わっているのだが今日は食器を打つ音と、シーんと耳を疑うほどの静寂だけに耳をかたむける羽目になっている。
キクナに何かあったとしか思えなかった。こんなに気落ちした彼女も珍しい。自分が帰って来なかったせいなのだろうか、とジョンは本気で考えた。
「何かったのか」
ジョンはパスタを平らげて、キクナも食べ終えてから問うた。
「え? いや、べつになんでもないよ」キクナは無理に微笑んでいるようだった。
ジョンの目は誤魔化せない。
「何があったんだ」さっきよりも力強く、キクナに問うた。
キクナは顔を歪めて、しばらく押し黙っていたが隠していてもしょうがない、と吹っ切れたように、「実はね」と切り出した。
「今日子供たちとお茶を飲みに行ったの」
子供たちが誰なのかはしらないが、しらなかったとしても話にさしたる影響はないだろう。
ジョンは、「ああ」と相づちを打った。
「その子供たちっていうのは、わたしが落とした落とし物を拾ってくれた子供たちなの」
「ああ」ジョンは同じように短く答えた。
「その子供たちはね……。スリで生計を立ててるの……。それでね、なんて言っていいのか分からなくて、わたし、凄いねって言っちゃたの……」
不安や悲しみをふくんだ声にはまとまりがなかった。
「そしたら、『何知ったようなこと言ってんの?』って、その子はいって……わたし、その子を傷つけるようなこと言っちゃったのかなって、色々考えちゃって……?」
「スリで生計を立てている、ストリートチルドレンなんだろ。たしかに、凄いなんて言われたくなかっただろうな。別にスリで生計を立てることは凄いことじゃない」
ジョンはハッキリと自分の考えをのべることにした。自分の考えを押し隠して、上辺だけの優しい言葉をかけてもキクナを傷つけるだけだと思ったからだ。
「スリや泥棒で金を稼ごうと思えば、誰にだって稼げる。本当に凄いのは、そんな人を貶める方法で金を稼いでいる奴ではなく、人を貶めず真面目に働いて金を稼いでいる奴だ」
キクナはうつむいて、「ええ……確かにあなたの言う通りね……。わたしは無神経な酷いことを言ってしまったのね……」とのどを掻き切るような悲愴感を滲ませいった。
「別に君が心を病むことではないだろう。その子供たちも同情なんかされたくないはずだ。勇ましく生きているのだから」
「あなたは……スリで生計を立てることは悪いことだと思う……?」キクナは顔を上げて、ジョンの目を見つめた。
悲しみに潤んだ瞳の奥には、悲壮的な力強さが含まれているようでもあった。
「状況にもよるな」ジョンはキクナの目をしっかりと見つめ返していった。
「状況? 状況なんて関係ないんじゃないの?」
眉をすくめキクナはいった。
「いや、膳か悪かなんて状況でいくらでも左右され、状況で膳は悪になり、悪は膳になるんだ」
キクナは難しい顔をして、「つまり、どういうことなの……?」と訊く。
「古代ギリシャの哲学者、ソクラテスの無知の知は知ってるな」ジョンはキクナに問うた。「ええ、大雑把には」キクナは答えた。
「ソクラテスの弟子のカイレフォンがアポロン神託所にて、巫女に『ソクラテス以上の賢者はあるか』と尋ね、巫女は『ソクラテス以上の賢者は一人もない』と答えた。
しかし自分が賢明でいことを自覚していた、ソクラテスは巫女の言葉に大層驚き、自分がどうして賢明なのか自問自答した」
「ええ」キクナは真剣な顔で答えた。
「ソクラテスは世間で評判の賢者たちに会って、彼らが自分より賢明であるかどうか、対話を通して明らかにしようとした。
ソクラテスは賢者や学者たちにこう問うたんだ、『勇気とは何ですか?』と。賢者は答えた、『勇気とは、敵を前にして逃げないことだ』それを聞いてソクラテスはこう返した。
『では、たった一人で大軍を前にしても逃げないのは勇気ですか』と。君はどう思う?」
ジョンはキクナに問うた。キクナはしばらく考えた。ジョンはキクナが考え抜くまで待った。
「それは、勇気ではないわ。逃げるもの勇気よ」
ジョンは微笑んだ。「その通りだ。では、欺くことは悪だと考えるか」ジョンは再び問うた。
「嘘を付くことは悪いことよ」キクナは即答した。その声に迷いというものはなく、まだ穢れを知らない少女のようであった。
「では、このような状況ではどうだと思う。もし、君の友達がナイフで自殺をしようとしている。
君は友達を助けたいあまり、ナイフを隠した。友達は、『ナイフをどこに隠した』と君に問うた。君は『知らない』と嘘をいった。君は自分で悪いことをした、と思うか」
キクナは顔を歪めて、「思わないわ」と低い声でいい返した。
「それと同じさ。善悪なんて、そのときの状況で膳にでもなり、悪にでもなるんだ。
じゃあ、そのスリで生計を立てている子供たちが将来、誰かの命を救ったり、悪い者。例えば、連続殺人鬼なんかを捕まえたとする。その子たちは、スリをしたおかげで将来があり、膳を行えるんだ」
「ええ、たしかにその通りだと思うわ」キクナの声は少し、ほんの少しだが明るくなった気がした。
「君が凄いことだといったのは、そのときの君が凄いと心から思ったからだろ」ジョンが訊くと、「ええ」と短く答えた。
「私が思う本当に悪いこととは、人を貶めることなんだ」ジョンはテーブルの一点を見つめながらいった。
「貶めること?」
「ああ、人を貶めることは何があろうと悪いことだ。貶めた先に弁論なんてありはしない」ジョンは憎々し気にそういった。
キクナは眉を歪めて、「ええ、人を貶めることは悪いことね……」といった。
ジョンは時計を見た。空は暗くなり、月が出ている。今夜は三日月だった。人を貶めることは悪いことだ。人を貶める悪者を今夜始末する。さあ、仕事の時間だ――。




