case45 はじめに名前ありき
酒場とは違い静かで、上品な人々が話に花を咲かせていた。話ている内容も、上品で聞いていて気分がいい。
何々の本は良かっただとか、あの劇は素晴らしかった、だとか、この紅茶は美味しいですね、だとかそんな上品な話だ。
ここでなら、何時間でも時間つぶしができるとジョンは思った。
ジョンはオープンエアでコーヒーを飲んでいた。沢山の人々が賑やかに、語り合っている。ちょうど時間的に客が増える時間帯なので仕方がない。
最近は酒場に入り浸っていたせいで、酒臭い臭いが鼻にこびりついて、頭の芯からクラクラと気持ちが悪かった。外の澄み渡る空気とコーヒーの香りで、少しでも酒の臭いを頭から取り払おうとしているのだが、一向に晴れることはなかった。
しかし、今夜でそれも終わる。あの酒臭い酒場からも解放されるのだ。そう考えると、鼻腔にこびりついた臭いは取れなくとも、心は清々しい。
そして、もういちどジョンはコーヒーをすすった。
「どうだった、ちゃんといたでしょ」
そのとき、背後から聞き覚えのある。澄み渡り癖のない声が聞こえて来た。神出鬼没のあの少女だ、とジョンは即座に理解した。
「ああ、いたよ」コーヒーをソーサーに戻して、背後の人物にいった。
椅子を引く音がして、踵を鳴らす音がデッキを子気味良くならした。銀髪をなびかせながら、黒いゴシックドレスを着た少女が背後から姿をあらわした。
「君はどこにでもあらわれるんだな」ジョンは少しだけ、皮肉りを込めていった。
「ええ、わたしは何処にでもあらわれるわ。神出鬼没なの」と少女はくすくすと笑いながら、ジョンの真正面に腰を下した。
ジョンと少女はテーブルを挟んで、向かい合うかたちになった。頬杖をついて、ジョンに見上げるような視線を向けた。
「殺るなら、今日しかないのでしょ?」
物騒なことを言っているのだが、この少女が話すと日常の何気ない会話のように自然に聞こえる。
「殺るなら今日しかない」とジョンは少女の言葉をそこまで反復して答え、少しだけ訂正する。「たぶん、十二時を過ぎるだろうから正確には、明日だろう」
「そうね。正確には明日ね」
少女はまたクスクス微笑みながらいった。
「あの男を殺ったら、あなた追われるわよ」
「ああ、そうだろうな」自分に言い聞かせるようにつぶやき、「人気者だ」と笑って見せた。
「ええ、本当にあなたは人気者ね。警察からは愛されて、ジェノベーゼからも愛されることになるわ」
そこまでジョンは少女の話を聞いたところで、食器を片付けに来たウエイターを呼んだ。ウエイターにこの店で一番人気のグレープジュースを注文した。
「あの、議員はね。ジェノベーゼとの関りがあるの。あなた知ってた?」
ウエイターが店内に下がるのを、見とどけると少女は再び言葉をつむいだ。
「噂になっているからな。嘘か誠かは分からないが、火のない所に煙は立たない」
「ええ、火のない所に煙は立たないわ。火種があるから、噂は広まるのだから」
とびらについたブリキのベルがガラゴロ、と鳴ったと思うと颯爽とグレープジュースの乗ったトレイを持ったウエイターがあらわれた。
まだ、あれから一分ほどしか経っていないが、仕事の早いことだ、とジョンは感心した。きっとこの店は人気になる。いや、すでに人気か、と思い出した。
「木で熟成させ、手摘みで摘み取った巨峰を一粒一粒選び抜き、絞った百パーセントのグレープジュースでございます」
ウエイターはよどみなく、流れるようにグレープジュースの説明をして去って行った。
「おごってくれるの?」少女は濃い紫色になったグラスを、指でつつきながらジョンに訊いた。
「ああ、好きに飲むといい」
「まさか、これで貸しを返したというつもり?」
少女は可愛らしく、眉をすくめた。
「駄目かな」
呆れた、という目で少女はジョンを見た。「これだけじゃ、天秤のつり合いはとれないのではないかしら」
「たしかに、それだけでつり合いが取れるほど、安い情報ではなかったな」
少女は、「その通りよ」とつぶやいてストローを吸った。ストローを流れる紫色の液体は少女の唇へと消えていく。
ジョンは自分のカップに残ったコーヒーを飲み干し、「君に聞きたいことがある」と切り出した。
「あら、あなたから質問してくれるなんて、珍しいわね」少女はグラスのリムに指を這わせた。「いいわよ。何でも聞いてちょうだい」
「君は何者なんだ」ジョンは率直に訊いた。
「それは、名前を訊いているのかしら」
「そうだな、名前を訊いているのかもしれない」
「わたしに、名前なんてないわよ。わたし達には名前なんて必要ないもの。あなたは名前を必要なものだと思うの?」
少女は試すような、低い声でいった。
「名前は必要だな。君を区別するためにも、ものの存在には名前が必要だ。名前がなければ、何も残らない」
「名前がなければ、何も残らないなんて悲しいわね……」
「はじめに言葉ありき、言葉がなければ何もはじまらない」
ジョンは少女を説き伏せるようにいった。
そこで、少女は言葉を挟んだ。
「はじめに言葉ありき、って変じゃないかしら? はじめにあったのは、言葉ではなくて、名前であるべきだわ。『神様が光あれ』って言って、光ができたんでしょ?
だったら、光という名前があったから、光ができたのよ。
つまりはじめに名前があるから、言葉があるの。だから、はじめに名前ありきが正しいと思うの」
少女は少女らしい可愛らしい声で反論した。
少女の言葉に、ジョンはしばらく考えていた。たしかに、言われてみればそうだな、と。
「たしかに、君の言うことは正しいかもしれないな」
そこで少女は思い至ったように、「そうね。わたしが存在している限り、名前が必要なのね」と大人びた表情があどけない少女のものに変わった。
「そうだ、君に名前がなければ、今こうして私と話をしている君は存在しないことになる」
「それは困るわね……」少女は顔を曇らせ、しばらくの間考え込んだ。「そうね。それじゃあ今日からわたしのことを、レムレースとでもい呼んでちょうだい」
「レムレースとは複数形だぞ。単数形ならレムールだ」
少女が勘違いをしていると思い、ジョンは諭した。
「いえ、レムレースでいいの。レムレースがいいの」
そういって少女は微笑んだ。どうやら、勘違いしているのではなく、あえてその名前を選んだようだ。ジョンは肩をすくめいった。
「そのような姿には見えないがな」
少女は小首をかしげて、「そう、うれしいわ」と微笑んだ。
「それじゃあ、わたしはあなたを何て呼べばいい?」
レムレースという名前になった少女は、ジョンに問うた。
「ジョンだ」
ジョンは自分の名前を短く答えた。どこにでもいるような、名前をジョンは気に入っていた。
「ジョンね。じゃあ、今日からあなたをジョンと呼びましょう。これで、ジョンという一個人が生まれたのね」
「ああ」
それからしばらくの間、二人は他愛無い会話を交わした。レムレースがしゃべり、ジョンが相づちを打つというかたちだ。それは、キクナと話しているときと、何も変わらなかった。
「それじゃあ、そろそろお姉さまが待ってるから、わたしは帰るわね」とレムレースは立ち去り際に、ある物を置いていった。
「これをジョンにあげるわ。きっと、役立つはずよ。これからは、それを付けて仕事をしなさい」
そう言い残し、レムレースは鬼人のように姿を消した。
テーブルの上には仮面が置かれていた。ピエロのように、泣きながら笑っている仮面だった。
目もとから流れ出る涙だけがグラン・ブルー色で、あとは象牙のように黄みがかった白色をしていた。気味の悪い仮面だった。




