case41 ユダヤの血
少年は、「ざけんなよ!」と叫びながら腕を強く振り、引き抜こうとしたが、キクナは放さない。
「あ、そ~、じゃあ、出るとこでましょうか~」
キクナはニヤリと、不敵に微笑みながら脅しとも取れるセリフを吐いた。少年の顔は不安に歪んだ。
「で……出るとこでるって……何がだよ……?」
少年は顔を引きつらせながら問い返す。
キクナは小悪魔的な笑みを浮かべた。
「出るとこはでるとこよ」と。
「脅してんのか……?」
一歩後下がりしながら、少年はいった。
「人聞き悪いわね。脅してるんじゃなくて、交渉してるのよ」
「同じだろ!」
「同じじゃないわよ。脅しと交渉じゃえらい違いだわ」
埒が明かない話し合いをしていると、仕舞に少年は肩を落とし折れた。
「分かったよ……。ニックに会ってどうしようっていうんだよ……?」
「あの子ニックっていう名前なのね。どうするって、お礼をいうのよ」
「何のお礼だよ……。あいつが人様にお礼を言われるようなこと、したっていうのか?」
「ええ、とても大切な物を拾ってもらったわ」
少年は怪訝に歪めていた顔を緩め、「そうなのか」とつぶやいた。
「案内するから、手を放してくれよ」キクナに握られた手を、見下ろしながら少年がいった。
「ダメ。放したら逃げるでしょ」
「逃げないって」少年はキクナの目を見ながら、言い切ったが、「ダメ」と少年のお願いを、即座に一蹴した。
「じゃあ、どうやって、案内しろっていうんだよ!」
「そんなの、簡単じゃない。手をつないで歩けばいいのよ」
「そんなの……で……」そこまでいって、少年は言葉を飲み込んだ。キクナの笑顔には有無を言わせぬ、何かがあったからだ。
「分かったよ……」
少年は唇を尖らせ、ポツリと了承してくれた。
少年がエスコートするかたちで、キクナの手を引いた。少年は顔を紅に染めているが、はたから見て姉弟にしか見えなかった。少年は人垣を縫い、市場を抜ける。
人気が少なくなってきた。それから、石畳をしばらく進んで行くと、女性の彫刻があるところで、少年は立ち止まった。
「どうしたの?」キクナは不審に思い問うと、「ここで、待ち合わせしてんだよ」と少年は周囲を見渡した。
「まだ、来てないみたいだな」
それから、しばらくその場で立ち尽くしていると、「そこに、座れよ」と少年は石垣を指さしてキクナにいった。
キクナは少年が指さした石垣を見た。壊れかけのボロボロになったレンガを積み上げて、アスファルトでくっつけただけのブロック塀だった。
「そうね。ありがとう」
キクナは、少年の腕を引いて石垣に座った。
「君も座りなよ」
「いや、オレはいい」
そっぽを向いたまま、少年はいった。
「はっは~ん、照れてんの?」キクナはからかい気味にいってみた。
少年はゆでだこのように、一気に顔を赤くし、「ち、ちげぇーし! オレは立ってる方が好きなんだよ!」とまくしたてた。
「あっそ、だけど、座ってくれないとわたしが大変なんだけど」
少年はキクナの手を見た。少年の手に合わせて、常に上段に上がるかたちになっていて、たしかに大変そうだった。
「あ……しょうがねえなぁ」渋々という様子で、少年はキクナの横に腰を落とした。
裏路地に通じていることもあり、この狭い街道を通る人は、殆どいなかった。通るのは昼間っから酒臭い臭いを、漂わせている男か、ちょっとガラの悪い人ばかりだった。
キクナは横目で、少年の横顔をうかがった。
この少年と、あのとき兄からもらったメモ書きを拾ってくれたニックという少年は、スリをしているののだろうか……。
「ねぇ」キクナがそう声をかけると、「何だよ?」と少年は素っ気なく応じた。キクナはしばらくだまって、言葉を探す。
「君たちはスリをしてるの……?」
申し訳気味にキクナは少年の横顔をうかがった。
「それがどうしたんだよ」と隠そうとするでもなく、潔く認めた。
いや、隠しきれないと思ったのか、隠しても仕方がないと思ったのか、その両方かもしれない。
「いや……どうもしないわ」
目をしばたかせながら、しばらく黙った。
「親御さんは……いないの……?」と気が付けばキクナは訊いていた。
「もしかして、同情でもしてんの? だったら、凄い迷惑なんだけど」
少年は眼を険しく引きつらせて、キクナを睨んだ。
「いや……そんなつもりでいったんしゃないわ……」
キクナは消え入りそうな小さな声でいった。
「そ、ならいんだけどさ。同情ってのは、相手を見下す行為なんだぜ。自分が同情する相手より恵まれてると思うから、同情心がうまれるんだ。
自分より相手が恵まれてたら、同情されることはあっても、同情なんてできないからな」
「ええ、本当にそうね」
まだ十二、三ほどの少年の口からそんな言葉がでたことに驚いた。そして、吹っ切れた。
「これは同情じゃないわ。わたしの好奇心からの質問。じゃあ、聞くけど親はどうしたの」
少年は細めた眼で、キクナを見た。「親父はユダヤ人だったんだ。ナチの奴らがオレたちの住んでたポーランドに侵攻してきて。オレたち兄弟は、母方の祖母の家に引き渡された」少年のその言葉はまるで、機械のように写実的だった。
「親父はアウシュヴィッツっていう強制収容所に連れていかれて、親父に味方した罪でお袋もSS幹部に殺された。
オレたち兄弟は、何とかバレることなく、切り抜けたが、祖母はお袋が死んだショックで持病の心臓病が悪化して、その年に親父とお袋の後を追うように死んだ」
そこまで語って、少年は写実的な声音から、今までの活発な声に戻った。
「で、SS幹部の残党に見つからないように、こうして生きてんだよ」
それ以上多くは語らず、事実をありのまま包み隠さず少年は伝えた。
「そんなことわたしに話しちゃってよかったの?」
「あんたが話せっていったんだろうが!」
「あ、ははは……」キクナは人差し指で頬を掻き、「そうだったわね……」と目をそらした。
そのとき、少年が立ち上がった。「どうしたの……?」キクナは少年を上目に見ながら問う。
少年が目を向けている方角に、キクナは眼を向けた。数メートル離れた、路上に呆然と小さな影が立ち尽くしていた。そこで、キクナは気付いた、あの子がニックという子なのだと。
「待ったぜ」
少年は大きな声でニックにいった。
ニックは怪訝に顔を歪めた。




