file06 『伝説の伝道』
私の記憶に残る記憶は暗いものだ。初めて持った記憶から、今から持つであろう、記憶まで暗いものだ。
幼い私の記憶に残る物事は、生物学的に母親になる女が、生物学的に父親になる獣に、暴力を振るわれているというものだ。獣は女に手をあげる。
女は何も言わずに獣の暴力を受ける。
泣きながら受けるのだ。私には分からない、どうして、獣が女に手をあげるのか、どうして、女は逃げることもなく、暴力を受けるのか、私には分からない。
幼い私には何も分からない。
「そういう訳で、討伐隊をもってしても、怪物を捕えることはできませんでした」
「じゃあは、そのあいだも犠牲者は出たんですか?」
バートンは、乾いた下唇を湿らせながらいう。
「ええ、犠牲者はそれからもでました。何人もの人間が殺されました……討伐隊が結成されて三ヶ月後のことです」
トローキンはそこで、バートンとキクマを見据え、声音を変えた。
「やっと背中に黒いぶち模様がある巨大な狼を討伐したのです。誰もが一件落着だと思いました。僕には分かりませんが、きっと、そのときの人々は救われた、と思ったでしょうね。しかし、その巨大な狼を討伐した数日後……一人の女性が獣に襲われました」
「犯人はその狼じゃなかったんですね」
「ハッキリとしたことは分かりませんが、そうなのでしょう。――そして、みんなの命を救うため、一人の英雄が立ち上がったのです」
「英雄? その英雄が怪物を退治したんですか?」
トローキンは小さく、「そうです」とうなずいた。
「その英雄が怪物を退治し、恐怖は終わったのです。この村ではその人を敬意を込めて、英雄と呼んでいます。これが怪物伝説のすべてです」
キクマとバートンは顔を見合わせ、立ち上がり、「トロ―キンさん、ありがとうございました」と、深く頭を下げた。
トロ―キンは遠くを見たまま、それ以上は何も言わなかった。
まるで魂が抜けたように、一寸も動くことなく、燃え尽きている。
これ以上、訊くことなどない、十分すぎるほどに教えてもらえた。感謝こそすれど、文句を言う筋合いはない。
トロ―キンはもう、何も語ることはないという顔をして首を垂れた。まるで、今まで背負ってきた目に見えない重石から解放されたような清々しい表情だった。
「お時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした。本当にありがとうございました」
トロ―キンは首を大きく振りながら、いう。
「いえ、当然のことをしたまでです。頭を上げてください」
「捜査にご協力ありがとうございました」
キクマも深く頭を下げる。バートンもキクマを見習うようにもう一度、深く頭を下げて、礼をいう。二人は踵を返し、その場を後にした。
*
バートンは歩きながら伸びをした。トロ―キンの話に熱中するあまり、体が硬直してしまった。伸びをすると血流が全身に行きわたり、体中がむずがゆくなる。無意識に手が背中を掻いていた。
手を引き抜き指に視線をやると、垢が爪の間に詰まっていた。そんな些細なことを気にする様子もなく、バートンは背中を再び掻いた。
「おい、あれを見ろよ」
背中を掻きながら歩いていたバートンにキクマいう。キクマは指をさしていた。
バートンはキクマが指さす先に視線をやるが、何を指さしているのか、分からなかった。
指示した先にあるのは小さな橋と数軒の家、そして、川に沿って植えられている、数十本の樹だけだったからだ。
そうやって、視線を回していると、川の向こう側に何かあるのが見えた。目を凝らし橋の向こう側のモニュメントのような物を刮目する。
「あれはなんですか?」
「何かの記念碑だな」
バートンは目先がかすんで、霧がかかっているようになっているのに、キクマはハッキリと見えているらしい。
どうやら、キクマの方がニ十歳以上も若いバートンよりも目が良いらしい。長年連れ添っているが今日初めて知った。
「記念碑ですかぁ」
バートンはもう一度小さな川の向こうに見える、記念碑のような何かに目を凝らした。しかし、記念碑の全貌までは見えない。
「行ってみましょう」
バートンとキクマは小さな橋を渡り、記念碑の前までやって来た。
記念碑には銃を持って、海賊のようなつばの長い帽子をかぶった男が彫られていた。
横顔が彫られていて、何かを成し遂げた男のように渋い顔で向こう側を見つめていた。記念碑になるぐらいなのだから、何かを成し遂げた人物なのは確かだ。
記念碑に彫られている、人物が伝説に現れる英雄なのだろうか。
記念碑にはこの英雄の名前らしき文字がビルマと丁寧に彫られている。
「この人がトローキンさんが言っていた、英雄でしょうか?」
バートンはおざなりにキクマに問う。
キクマの返答はあっさりしたものだった。
「記念碑があるんだから、そうだろうよ」
当然だ、記念碑があるのだから、そうなのだろう。
「この人が怪物を退治したっていう、人でしょうか?」
またも当然のことをバートンは訊いて、「そうだろうな」と返される。
バートンは胡散臭いものでも見るような目で、記念碑を見た。
水の流れが尖った、二人の精神を落ち着かせる。
自然の音は精神を落ち着ける力がある。その力におっさん二人は癒されていた。そして、バートンは唐突に思ったことを口に出す。
「怪物を退治したら、こうやって、歴史に名前が残せるんですかね。もしそうなら、怪物をでっちあげて、自分がその怪物を退治した。って、言って歴史に名を残そうと考える人がいそうで怖くないですか? 自作自演ですよ」
言うと、キクマは鼻を鳴らした。キクマはポケットに手を突っ込んだまま、ふんぞり返るようにいう。
「行くぞ」
どうやら、バートンの問いにこれ以上答えてくれる気はないらしい。
「どこへ?」
キクマはポケットに入れていた手を取り出して、バートンに手招きする。何も言わず、ただ黙ってキクマは歩く。何も言わなくても分かるとでも思っているのだろうか。
僕は超能力者じゃない、とバートンは心で思う。
心で思うだけで、口に出してまで言おうとは思わない、仕方なく、バートンはキクマ警部の後ろに付いて行った。
*
二人はラッセル発見現場に戻ってきていた。キクマの考えは現場百編という古い考え方なのだ。
まあ、確かに現場には事件の手がかりになるものが数多く見つかることは否めないが。現場はまだ、色めき立っている。
世界中のどこにでも野次馬はいるものだ。
他人の不幸は蜜の味、普段と変わらない、日常を他人の不幸で変えようとしている人たちもいる。
しかし、あれから、もう三時間は経っている。いつまでも興奮が冷めないのはおかしな話だ。どこまで暇なんだ。
「あのー、この騒ぎななんですか?」
バートンは警備にあたっている、警察官に問うた。
警官は両手を後ろに組み、胸を張って立っている。
身長はそれほど、高くないが、体幹のしっかりした。
明らかに何らかのスポーツをやっているであろう、オーラのようなものが彼を大きく見せている。
「新たに、犠牲者が出たんですよ」
その警官は体からは想像できない、優しい声をだした。
よく見ると、まだ若く、童顔のせいで、十代に見えなくもない。顔と体が合っていない不調和感が、バートンを困惑させた。
「犠牲者がでた! またですか、怪物に襲われたんですか?」
「詳しくは被害者に訊いた方が早いと思います」
童顔警官は後頭部を、右手でかきながらいった。多分、何かを語る時の癖なのだろう。人間しゃべるときに何らかの癖が出ているものだ。
手をしきりに動かしてジェスチャーしたり、体の一部を触るなどだ。
「犠牲者は生きているのですか?」
驚きだった。
怪物に襲われて生き残った人間は初めてはないだろうか。
童顔警官は後頭部をかく手を止めて、その犠牲者を指で指示した――。