case39 アノンの仕事
広場は人々でにぎわっていた。ザワザワと沢山の音が入り混じり、雑音というよりは、一つの音楽のように聴こえる。
色んな服を着た人々が、色々な目的を持って前を行きかっている。
人通りの多い広場でアノンは風呂敷を広げ、客を待っていた。ここは、街で二番目に大きな広場だった。広場の中央には噴水があり、噴水を囲うようにして花が植えられている。
商売をするにはこれ以上ない、絶好の場所だった。だから、アノンの他にも、色々な商売を行っている人々がここには集まるのだ。
フランクフルトを売っている者。フルーツジュースを売っている者。アクセサリーを売っている者。似顔絵を描いている画家。大道芸人。ストラップを作っている者。占い師など様々である。
人は次から次に通り過ぎてゆくのに、お客は来ない。今日は調子が悪いようだ。アノンはボーっと空を見たり、噴水を見たり、となりに見える大道芸を無料で見たりと、気ままなときを過ごしていた。
毎日朝八時ごろから、ここの陣地をとって、三時過ぎまで粘る。それで十人から、多いときで二十人以上の靴を磨き、料金はその人の気持ちで決まった。
しかし、昼を過ぎたというのに、今日はまだ十人にも満ちていない。今日はこのまま粘っても、お客は来てくれないようだし帰ろうかな、とアノンが思ったとき、眼の前に人影が立った。
アノンはその人物を見上げた。体系からして男であることが分かった。太陽の光が逆光になって、男の黒いシルエットだけが浮かび上がった。
アノンは眩しそうに、目を細めながら、「お客さんですか?」と問うた。アノンが眩しそうにしているのを悟ると、男は気を利かせてしゃがんだ。
アノンとその男の目線が対等になる。「よう、坊主。靴磨きをしてんのか?」
生きのいい中年男の声だった。歳は六十近くに見えるけど、声は若々しい。
「はい」アノンはうなずいた。
「俺の靴も磨いてくれるか」
そういって男は汚れに汚れた革靴をアノンに見せた。ありゃ~、これは時間かかるな、とアノンは思った。けれど貴重なお客だ、無下に追い返すことはできない。
「いいですよ。この木箱に足を置いてください」といってアノンは木箱を前に押し出した。
「それじゃあ、頼むぞ」男は気箱の上に黒い革靴を乗せた。
アノンはまず馬毛のブラシで男の靴を優しくはいた。続いて布で乾拭きし、汚れを取る。男の靴はだいぶん、くたびれていた。
よほど歩く仕事をしているのだろうか。そんなことを考えながら、ローションをもう一枚の布に付けて丁寧に隅々まで時間をかけて磨いた。
「坊主はいつもここで靴磨きをしてるのか」男はせっせと靴を磨くアノンの頭を見ながらいった。
「うん、朝から昼過ぎまで、ここでやってるよ」
「学校はどうしてるんだ?」
「いってないよ」
アノンの回答が予想外だったのか男は気落ちした声でいった。「そうなのか……」
しばらく重苦しい沈黙が、二人を取り巻いた。
「お袋や親父はどうしてるんだ?」きっと男は重くなった空気を取り除くべく、いったのだろうが、「親はいないよ」とアノンは靴を磨くついでのように答えた。
「戦争で死んだのか」
アノンは右足から、左足に変えるように男にうながしてから、「分かんない。物心がついたときには、今みたいな生活だったから」もういちど馬毛のブラシでアノンは靴についた埃を落とした。
「そうか……」男はしんみりといった。
「戦争の話しをするけど、おっちゃん、戦争行ってたの?」
「ああ、二つの大きな戦争に出てたな。はじめは陸軍兵士として、二回目は司令官としてな。沢山の人を殺しちまったんだよな」
男は遠い昔を思い出すような眼をした。
「それでな、最近よく考えるんだよな。俺が殺した奴らにも、帰りを待っている奴らがいたんだな。ガキたちがいたんだな……ってな」と悲嘆するような音声でいった。
「たぶんいたよ。帰りを待ってる人が。その人たちも仲間を護るため、家族を守るために戦っていたんだよ」
「ああ、そうだろうな。俺みたいに護るもんなんて、なんもなかったから沢山の人間を殺せたんだろうな」
そこで一度男は言葉を区切った。
「戦争ってのはな、沢山の人を殺せば英雄になれるんだ。そう言う俺も英雄だって言われてたんだぜ。英雄になんてなるのは簡単なんだよ。沢山の人間を殺せばいいんだからな」
アノンは聞き流しながら、「そうだね」と布にワックスを付け直した。
「坊主は英雄になりたいか?」
「分かんないよ」アノンが素っ気なく答えると、「そうだ。分かんなくていんだ。英雄なんてなるもんじゃあねえ、なるなら偉人にならなきゃなんねえからな」と哲学者が道行く人々に教えを垂れるようなことをいった。
「英雄と偉人は違うの?」
「ああ、ハッキリとしたこたぁー分かんねえけど。これからの時代は、英雄より偉人の方が偉いんだ」
「えへー、そうなんだ」
そしてまた、しばらくの間重い空気が舞い降りた。アノンは男がいった、英雄と偉人の違いを考えた。
しかし、何も分からなかった。分かったことはどちらも、なったら大変だろうな、ということだけだった。
「わりぃーな、坊主みたいなガキを見てると、そんなこと思っちまうんだよな。話を変えよう、話を」と無理に声を明るくして、「どこで寝起きしてんだ?」と質問を変えた。
この男はよく質問してくる人だな、それも普通なら訊きづらい質問を訊いてくる。アノンは少しムッとし、黙ることにした。
「施設か? だけど、施設だったら子供を働かせたりしないよな。それに今はどこの施設も満タンで入るゆとりがないって聞くもんな」
男はついに、一人語りで勝手にアノンの近状を予測し出した。
アノンは根も葉もないことを言われるのに、腹が立ち、「ぼくにはちゃんと、家族もいるし、家もあるよ」と声にとげをふくませて抗議していた。
「そうなのか?」
アノンはいってしまってから後悔した。この男はきっと色々とまた訊いてくるぞ、と。しかし、客との無駄話も仕事の内だ、とアノンは考えているので、無下にはしない。
「うん……ぼくにはお兄ちゃんがいるんだ。お姉ちゃんもいるし、家族がいる。家もあるし、一人じゃない」
「そうか、悪いこと訊いたな。だけど、家族がいるなら良かったじゃねぇーか。それで、その兄貴ってぇーのはどんな奴だ」
「優しいよ。みんな優しいよ」
「そうか、良い家族に恵まれたな」
男は乱暴にアノンの頭をくしゃくしゃにした。アノンはされるがままになっていた。セレナ姉ちゃんと違って、男の手はゴツゴツして気持ちのいいもんじゃなかった。
「終わったよ」
両足の靴磨きが終了し、アノンは男に告げた。男のくたびれていた革靴は、新品のようにピカピカに輝いている。
「ありがとよ、坊主。まあ、しっかし上手いもんだな。新品みてぇーにピカピカじゃねえか」
「そりゃあ、そうさ。ぼくはこの街で一番靴磨きが上手いんだから」アノンは胸を張っていった。
「この街一番とは大きく出たもんだな。この街にどれだけの人間がいるのか知ってんのか」男はからかうような笑みを浮かべた。
「いくらだ?」男はズボンの尻ポケットから、ボロボロの財布を取り出して、アノンに訊く。
「気持ちほどだよ」
「気持ちほどかよ。坊主もアコギな商売してんな」そう言いながら、男は乱暴に紙幣をつかみ取って、アノンの手ににぎらせた。
そして、男が立ち去ろうとしたとき、「あ、そうだ、そうだ。訊くのを忘れてたぜ」と立ち止まって、アノンの眼の前まで戻って来た。
「最近この街で、連続殺人が起きてるよな。その事件のことで何か知ってることあったら教えてほしんだが」
アノンが不審な眼を向けると、「あ、俺は刑事をやってんだ。怪しいもんじゃねぇ―ぞ」と説明してきた。
怪しい者じゃない、と自分から言ってくる人間ほど怪しい。
「知らないよ」アノンはそう答えた。いや、本当に何も知らないのだから、そう答えるしかなかった。
「そうか、ありがとよ」男は後ろ手に、手を振りながら去ってゆく。
男の姿が見えなくなるまで見送って、アノンは男ににぎらされた紙幣を調べた。
驚くべきことに、それは今日一日分の仕事で稼げるお金をはるかに凌駕していた。最後の最後に大儲けできた、アノンであった。




