case37 別行動
サエモン・テンは書類に目を落とした。狐のようにきりりと引きつった目が文面を追っている。
数千文字はあったであろう、書類にサエモンはあっという間に眼を通した。それで本当に読んでいるのか、と疑うほどに速かった。
「これだけしか、分かっていないのですか」
サエモンは読み終わった書類をテーブルの上に滑らせて、横に立っていた部下に訊いた。部下はビクりと肩を震わせ、申し訳ないといわんばかりに顔に影を落とした。
「はい……申し訳ありません……」部下は声を落として答えた。
「まぁ、良いでしょう。そう簡単にわかることではありません。それで、ジェノヴェーゼファミリーの方は少しでもわかりましたか?」
「はい、特に変化は見られません。しかし、ジェノヴェーゼファミリーがMKウルトラ計画に関わっていることは確かだと思われます」
サエモンはそんなこと、はじめからわかっていることです、という涼しい目で部下を見た。
「ジェノヴェーゼファミリーが、たいそう腕の立つ人間を雇ったという話を聞きましたが。その話はどうなのですか」
「はい……私もその話を聞きましたが、まだハッキリとしたことは分かっていません……」
「そうですか」サエモンは長テーブルの上で手の平を組んだ。「分かりました。引き続き頑張ってください」
部下は、「はい!」と敬礼して、部屋を出ていった。サエモンたちMI6は、MKウルトラ計画という非人道的人体実験の調査を担当していた。第二次世界大戦終結後、どこかの大国が研究をはじめた人体実験の名称だ。
しかし、世間から非人道的だと批判の的になり、その大国は実験を辞めた。表向きは、だ。裏ではまだ実験を続けているという噂は根強い。
第三次世界大戦に備えて、感情の持たない怪物を生みだす実験。MKウルトラ計画の実験をしている施設が、この国のどこかにあるのだ。それを、サエモンたちは探していた。
しかし、一年以上も調査を続けているものの、手がかり一つつかめていないのが現状だった。必ずこの国のどこかに、その研究施設があるはずなのだが……。
*
キクマとウイックは、ピエール議員の屋敷のリビングでコーヒーを飲んでいた。議員はどこかに出かけてしまい、キクマとウイックは取り残されたかたちだ。
「なぁ、キクマよ」ウイックはテーブルの上に置かれた菓子を、ボリボリ咀嚼しながらいった。
「何だよ?」キクマはコーヒーカップを皿に戻した。
「この部屋から出られないんじゃ、俺たちがいる意味あんのか?」
キクマはしばらくの間、チクタクとメトロノームのように揺れる時計を眺めてから、「ないな」と短く答えた。
「なあ、俺たちがいる意味ねぇえよな? あんだけSPがいれば、さすがのジョン・ドゥも手出しできねえだろってんだ」
ウイックは苛立ち気味だった。まるでニコチンが切れ、イライラする男のように。いや、実際にニコチンが切れているのかもしれないな、とキクマは思い直した。
「それによ、ここでじっとしてんのが何の役に立つってんだよ? なぁ、キクマよぉ、教えてくれよ」
「そんなこと俺に訊かれてもわかるわけねぇーだろうが」とそこまでは、普通の音声でいってから、「あの評判の良くない、カエル議員についていれば、確実にジョン・ドゥに近づけるのは確かなんだよ」と自信たっぷりに明言して最後に少し残ったコーヒーをすすった。
「だけどよ、あんだけ厳重に警備がついていたら、出るもんも、出ねぇーだろうが? あのカエルに頼んで、警備を手薄にしてもらった方が良いんじゃねぇ―か?」
「あの、頭でっかちにそのことをどう説明しろってんだよ? あ?」
キクマはできるだけ音声を落として、ウイックに言い返した。それにはウイックも戸惑い気味であった。
「だけどよ、何か変化が起きるまで、このまま何日も待つつもりじゃねぇーよな……? そんなの暇でしょうがないぜ」
「何日でも待つんだよ。それが俺たちの仕事だろうが」キクマは貫禄のある声でいった。
「だけどよ。その間に別の被害者が出るかもしんぇーだろ?」
キクマとウイックは親子ほど年が離れているが、まるでウイックの方が聞き分けのない子供のようで、キクマの方が親のようだった。それからまた、チクタクと時を刻む時計を見つめ、二人は黙った。
その静寂を破ったのはキクマだった。
「わかった。あんたとこの部屋でこれから、二人で過ごすのはさすがに気が滅入る。規則には違反するが別行動をしよう。俺が議員を見張っとくから、あんたは」そこでキクマは一瞬言葉に詰まった。「そうだな、あんたは聞き込みでもやってくれ」
ウイックの眼がガキ大将のように輝いた。この男はじっとしていることができない子供と同じなのだ。適当な名目を与えて、遊ばせていればいい。
「ただしだ」キクマはウイックをいさめるように、付け足す。
「何だよ?」ウイックはばつの悪そうに顔を歪めた。
「一人で行動して、おかしなことは起こすなよ」
ウイックは口をゆがめた。そして、自分の名誉のためといわんばかりに、反論した。「おかしなことって、何だよ」
「あんたがすることっていったら、決まってんだろ」キクマは不敵に笑いながら、「喧嘩したり、酒飲んだり、女遊びしたり、厄介ごとに首を突っ込んだりだよ」とまるで経験者のように語った。
「わかったな、何があっても一人で行動を進めるんじゃないぞ。もし何かあったら、先に俺を呼びに来てくれ」
キクマはウイックの眼を真正面から直視し、言い聞かせた。その声音は、わんぱく小僧に物事の通りを言い聞かせる父親に見えた。
「まるで、おまえが上司みたいな言い方じゃねぇ―か。まぁ、たしかに俺みたいな奴より、おまえの方が部下を持つにはふさわしいよな」
ウイックは遠いい目をして、時計を見つめた。まるで遥か彼方未来の、キクマの姿をイメージしているようでもあった。
「わぁーたよ。何かあったときは、おまえに真っ先に知らせに来る」
「ああ、約束だからな」キクマは立ち上がったウイックを見上げながらいった。
ウイックは白いワイシャツの上に、黒いスーツを羽織った。流れるようにスーツに腕を通す。波打ちながら、袖にウイックの腕が通った。
「おまえも、何かあったら俺に知らせに来いよ」
そして二人は、別行動をはじめた。ウイックが去ってから、キクマは、(知らせに来いよって、どこにいるかも知らねえのにできるわけねえだろうが)と思った。
誰もいなくなった応接間は、深い静寂に再び包まれた。もう、うるさい上司もいない、静寂を破るのはチクタク動く時計だけだった。そのとき、ド~ン! ド~ン! と時計が十二時を知らせ静寂をやぶった。
もう十二時か……キクマは昼食はどうすればいいんだ? と考えるのであった。




