case35 Serpent
男は怪訝に顔をしかめた。この女は何なんだ? っていうしかめ方だった。けれどキクナはそんなこと気にしない。昔から色々あったせいでメンタルだけは鍛えられているから。
あなたの長所は何ですか? と訊かれたら、〈メンタルです!〉と自信をもって答えられるほどに、キクナはメンタルだけは強い。
その日からキクナは積極的に、男に話しかけるようになった。男は真面目に取り合ってくれなかった。当然だよね、とキクナも思う。
いや、そうではないかもしれないな、取り合わなかったんじゃなくて、口下手なだけだったんだ。きっとそうよ、だってはじめから口数が多い人じゃないもん。と、キクナは自分の都合のいいように解釈するようになった。
ある日キクナはお礼もかねて、男を食事に誘ってみることにした。グイグイ押したもの勝ちよ! そう思って。
「あ、あの……。食事でもご一緒にいかがですか……?」
メンタルに自信のあるキクナでも、少し緊張しうわずった声になってしまった。好きな男の子にラブレターを渡し、その返答を待つ少女のように、ドキドキしながら男の返答を待つキクナ。
男は、「ああ」とだけ答えた。イイの? ダメなの? そんな短い言葉じゃ分からないじゃん、とキクナは心で思った。
それからキクナは少しずつ、男との距離を近づける努力をした。それから数か月はじめは不審がっていた男もキクナに心を開きはじめたころだった。男は自分のことを、「ジョンっていうんだ」と名乗った。
「ジョン? ジョン君っていうんだ」
キクナが噛みしめるようにいうと、「どこにでもいる、名前だ」と感情の読み取れない自暴的な言葉でいった。
キクナは慌てて、「わたしは好きだな、ジョンって……。ありきたりだからいいのよ。ありきたりってことは、よくつけられてる名前ってことでしょ? つまり、みんなが付けたがる、いいなまえってことじゃない」
どうして、そこまで焦ってフォローを入れたのか自分でも分からない。けど自分の名前を自暴的に語る彼の名前は憶えやすくて、良い名前だと思ったのは本当だった。
キクナがそういうと、ジョンは珍しく目を丸くさせ、「ああ、ありきたりだから、いいんだ」と微笑みながらいった。
キクナは昔のことを思い出しながら、眠りに落ちた。
*
窓から差し込む朝日で、キクナは目を覚ました。
いつも目覚めたときにはジョンはいない。帰ってくるのは大抵、昼過ぎだった。夜遅くに出かけて、する仕事とは何なのだろう? キクナは気になって仕方がなかった。
一度ジョンの後を付けたことがあった。けれどすぐに姿を見失い、気付いたときには背後にジョンが立っていた。怒られると思い身構えたが怒られることはなかった。
ジョンは何も言わずにただ、キクナを悲しい眼で見つめるだけだった。怒られるよりも辛かったのを憶えている。感情をぶつけて怒ってくれるなら、自分がしてしまったことの罪悪感も薄れただろう。
わたしは彼を裏切るようなことをしたのだろうか、キクナは自分を恥じた。その日以来キクナはジョンの後を付けようなどという考えを持つことを辞めた。
いつものように、キクナはジョンの昼食を作って帰りを待つ。待っている間は寂しかった。しかしジョンを想うと心は温かかった。
*
人々は機械的に右往左往に行きかっている。人々の話声はザワザワと雑音になり意味をなさない空気と同じ。
「また会ったわね」
少女は微笑んだ。ジョンの進む前方に、その少女は座っていた。街の中央広場には花壇があり、花壇をそうように円形に囲われたベンチに少女は座っていた。
ゴシックドレスの呉服みたいな姿は、誰よりも存在感を強調しており一目で彼女だと識別でできた。
ジョンはそのまま少女の目の前を横切ろうと考えたが、「少しお話、しましょうよ」と少女はジョンの行動を読んでいたかのように先手を打った。
ジョンは少女の眼の前を通り過ぎ様に、「私はいま忙しいんだ」と冷たく告げた。
「あら、本当に? 残念ね。せっかく役に立つことを、教えてあげようと思ったのに」
十二、三に見える少女は、妖婦を彷彿とさせる艶めかしい口調でいった。ジョンの足が止まった。「フフ」と少女は笑った。
「気になる? 教えてあげるわよ。いまあなたが狙っているピエール議員のことをね」
本当にこの少女は自分のことを何でも知っているらしいな。ジョンは渋々少女のとなりに腰を落とした。しばらくの間、目前を行きかう人々をジョンは無言で観察した。
「あなたがいま狙っている、ピエール議員はね。絶対に一人にはならないわよ」
そんなことジョンもわかっている。「ああ、だろうな」
「どうするつもり」少女はジョンの顔を覗き込みながらいった。
ジョンは答えない。答える義理も必要もないのだから、無駄なことは話さない。
「親の方は難しいだろうけど、子供の方は簡単じゃないかしら」
「子供?」ジョンはこう言い返したくなった、子供は君だろ、と。
「ええ、親に罪をもみ消してもらっているどら息子」
「君はそんなことも知っているのか」ジョンは感心したような口ぶりになった。
「あなたが知っていることなら、わたしは何でも知ってるわ」少女は触れ合わんばかりに顔を近づけて、「だって、わたしは人の心が読めるんですもの」と平坦な口調でいった。
ジョンは何も答えない。たしかに、心が読めるんだったら納得だ、とジョンは思った。少女はさも面白いようで、鈴のように透き通る声で笑った。
「嘘よ、嘘。人の心をもし読めたとしても、読みたいと思わないわ。人の心なんて読めたらきっとこの世界に絶望してしまうもの」
(その通りだな)とジョンも思った。人の心など読めたら、きっとこの世界に絶望してしまう。
「人間がただもの言わぬ花のようになればいいのにね……」
少女は花壇に咲いていたバンジーを悲しい眼で眺めながらいった。
「花が好きなのか?」
「嫌いじゃないわ。少なくとも人間よりは好きよ」
「同感だな。人間より花の方が綺麗だ」
「ええ、花の方が綺麗だわ」
そしてまたしばらくの間、奇妙な沈黙が落ちた。鳥が太陽を横切り、影が疾風の如く去ってゆく。
「どら息子のことを聞かないの?」少女の方がしびれを切らして問うた。
「君が話してくれるのを待ってるんじゃないか」
「あなたって変な人間ね」
「君もだがな」
そしてまたしばらくの沈黙があったが、さっきよりは短かった。再び静寂を破った(正確には道を行き交う人々の衣擦れや足音で、静寂ではなかったが)を破ったのは少女だった。
「Serpentって知ってる」
「蛇か」ジョンは蜷局を巻く蛇の姿を思い描いた。
少女は、違うわよというように不敵に笑った。
蛇以外のSerpentがどこいるというんだ。
「Serpentっていう酒場よ」
「その酒場にどら息子がいるのか」
「その酒場にどら息子が出入りしてるのよ。そこに集まるごろつき達と、ろくでもない悪さを企んでいるの」
少女はジョンの声音を真似て、いった。
「どうして、そんなことを知ってるんだ」
「言ったでしょ、わたしは人の心が読めるのよ。だからわたしが知らないことなんてないの」
そういって、少女はジョンの方を向いた。
ジョンも少女の話しを聞いて、彼女から目をそらした。
「そうか、Serpentか。貴重な情報だ」そういいながらジョンは、立ち上がった。少女を見下ろす。「またいつか、このお礼は返す」
「ええ、またいつかこのお礼を返してちょうだい」
少女は小首をかしげながら、微笑んだ。ジョンは少女を一瞥し、その場を立ち去った。しばらくして振り返ったときには、人の波に少女は飲み込まれ姿を消していた。




