case29 ポリシーと手を汚すにも及ばない人々
男は紙のようなものを何重にも重ね、慣れた手つきで丁寧に巻いた。すき間ができないように、丁寧にだ。
中央に円形の穴が開いたシガーカッターで、巻いた葉巻の先端を穴に挿入し、ジョキと子気味良い音を鳴らし切断する。
きっと指でも遊び半分に挿入すれば、あの葉巻のように飛ぶだろう。
拷問道具として、実際に使われているかもしれない、と思われる。一本一本、シガーカッターで指を切り落とされる姿を想像する。
そんなことをされて、口を割らない人間はいないだろう。
「ジェノヴェーゼファミリーの、人間を手に掛けたそうだね」
男は先端部分が橙色に光る、シガーライターのヒーター部分を、葉巻にあてがい火を点けた。
男はすぐには吸わずに、しばらく煌々と光る、葉巻の先端を見つめた。
「ジェノヴェーゼファミリー?」ジョンは男の言葉をそのまま、繰り返した。
意味が分からなかったからだ。男は鼻から息を吐くように笑った。
「ジェノヴェーゼファミリーを知らないか」
「ええ、知りません」
男は葉巻に口をつけ、ゆっくり、時間をかけて肺一杯に煙を吸った。そして、吸った時間の倍をかけ、煙を吐いた。深呼吸するように。
「昨日、君が殺した男だ」
ジョンは昨日の出来事を思い出す。記憶の軌跡をたどった。そして、思い出す。あの下衆で、卑猥で、生きる価値のない、男のことか、と。
「身に覚えはあるか」葉巻を人差し指と中指ではさみ男は訊いた。
「ええ、身に覚えがあります。強姦魔ですか」
「ああ、そうだ」といって人差し指と中指を唇に運び、もう一度葉巻を吸った。
「情報が早いですね」
灰皿に灰を落とす。「仕事柄そういう話は、真っ先に入って来るんだ」男は虚ろな目で灰皿に落ちた灰を見た。
納得だ、とジョンは思った。「その男がどうしたんですか」
男は灰皿に葉巻を立てかけ、組んだ膝を抱えるようにして、手を組んだ。
「ジェノヴェーゼファミリーっていう、マフィアに手を出したってことは今ごろ、君に報復するため血眼になって探しているだろう」
あの、ごろつきは、マフィアだったのか。ジョンはマフィアに追われていることよりも、あの男がマフィアであったことの方が驚きだった。
近ごろのマフィアはあんなごろつきまでも、仲間にいれるのかとその方が驚くべきことだ。
「これから、君は追われるだろう」
「ええ、そうでしょうね」息を吐くついでかのように、ジョンは平然といった。
「怖くないのかね」
「このような、仕事をしていれば、いつかはこうなることは眼に見えていたことですから」
ジョンは自分のことよりも、キクナのことが心配だった。もし、自分の住み家を突き止められでもしたら、キクナはどうなるのだろうか。
「そうか」
「そうです」
そこで、男は灰皿に立てかけていた、葉巻を人差し指と中指ではさみ、口を付けた。気分を変えるように、男は葉巻を味わう。
「仕事のほどはどうかな」
「とにかく、警備が厳重ですね。屋敷の周囲を、十人規模の護衛が囲んでいます」
男は鼻から笑った。「よほど、やましいことがあるんだろう」
ジョンも笑った。「ええ、そうでしょう」
それは、ジョンも思ったことだった。やましいことがなければ、つまり、命を狙われる憶えがなければ、あそこまでの警備は議員だろうと付けない。
「あの男は、隙なんて作らないな」男は皮肉りにいった。
「かもしれません」ジョンも皮肉りにいった。
男は短くなった葉巻を最後に一度吸い、名残惜しそうに灰皿にこすりつけた。
「もし、あの男が一人にならなかったら、どうするつもりだ」
「そのときは、強硬手段にでるしかないでしょう」
「君の腕を信じていないわけではないが、銃を使えばもっと簡単にことを行えるのではないかね」
いままで、勇ましかった、男はその話をするときだけ、声のトーンを落とし、まるでジョンを気遣うような言い方をした。
「いえ、銃は使いたくないんです」ジョンはきっぱりと言い放った。
「どうしてだ? 銃さへ使えば確実でナイフよりも簡単に仕留められるんだぞ」
男の声は、まるで聞き分けのない子供を諭すようにも聞こえる。かつて、葉巻だった灰をみながら、思った。この世は灰のように儚い、と。
「銃という兵器が、人殺しを簡易にしてしまい、庶民を戦争に駆り立てたのです」
ジョンの言葉は、男には子供が駄々をこねるようなものに聞こえるかもしれない。しかし、ジョンは己が信じる、ポリシーがあった。
それは世間一般でいうところの、宗教に似ていた。
「店に並ぶ家畜の肉を食べるのではなく、自分の手で、撲殺や、刺殺などで家畜を殺し、食べなければならないとしたら、どれだけの人が家畜を殺すことができるでしょうか」
男はしばらく押し黙り心中で考え込んだ。「大抵の者は、殺すことができないだろう」
男はジョンのわがままに、付き合ってやることにした。このジョンがこれほど熱心に物事を語るのを男は、はじめて見る。
「引き金を引くだけで、スイッチを押すだけで、簡単に家畜を殺すことができるとしたら、どれだけの人が引き金を引けると思いますか」
「撲殺や、刺殺よりは、増えると思うが」今度は即答した。
「ええ、そうでしょうね。――銃とはそういうものなんです。簡単に言えば、殺した実感が伴わないから、罪悪感も薄れると私は思うのです」
「つまり、戦争でも、銃など遣わずに、石で撲殺し合えば犠牲も減るということだな。さながら、カインとアベルだ」
男は頭の回転が早かった。ジョンが言いたいことを、数語の積み重ねで、推測してみせたのだ。
「ええ、石を使って互いに殺し合えば、自分がしていることの愚かしさに気付きますよ」ジョンは珍しく感情を表に出し嫌悪の色をしめした。
「つまり、君は何が言いたいんだ」
ジョンはしばらく黙り込み思想を整理した。そしていった。「殺した実感が伴わないと、駄目だということです。私は、誰かに責任を押し付けるでもなく、自分の手で殺したという実感を得たい。飛び道具なんかで罪悪感を軽減したくないんです」
男は腹から笑った。目尻にしわを寄せ、破顔し、豪快な笑いだった。
「変わっているな、君は。とことん、君に惚れたよ。――君がナイフにこだわるのは、手ごたえを得たかったからなんだな。ナイフが皮膚に触れ、肉を切り裂き、滴り落ちる血を、文字通り骨に刻みたいということか」
そこまで笑顔を崩さづにいった男は、仮面を付け替えたかのように、瞬時に真剣な顔に戻り、「しかしだ!」と地鳴りのような大音声を轟かせた。
男の声には気の弱い者なら、気を失ってしまうのではないかと思われるほどの覇気があった。
「この世には己の手を、汚すに及ばない腐った人間がいるんだ」
そういって男は、テーブルに備え付けの引き出しから、布包を取り出した。真っ黒い布には、金糸で刺繍がほどこされ、黒地に月のように、淡く光る金糸は映えていた。
その上から、紅紐で何重にも巻かれていた。
男は紅紐をゆっくりと時間をかけて巻き取った。
布を緩み中身があらわになった。
男はジョンにそれが見えるように構えた。「リボルバーだ。弾倉には六発入る。これは自分の手を汚すにも及ばない、と思った奴に使うといい」
そういって、男はジョンの眼の前にリボルバーを置いた。表面は光沢を放ち、冷たい金属の肌触りが見るだけで伝わるほどだった。
袋の中にはジャラジャラとしたものが入っている。
銃弾であると考えずともわかった。
「持っておくんだ」
男のその言葉は人間が発したものとは思えないほど、重々しく、ジョンに有無を言わせない力があった。




