case28 胸の中
キクナはジョンの髪の毛に指をからめ、くりくりともてあそんでいた。ジョンはされるがままにキクナの胸に顔をうずめ、キクナのにおいに包まれ、子供のように大人しい。
キクナの心臓の音が、ドクドクとリズムを刻み、聞こえる。肌と肌とを触れ合わせていると、まるでゆりかごに優しく包まれているような錯覚を覚えた。
いや、ゆりかごなどより、優しい抱擁だ。ただ優しく、温かい肌の温もり。ジョンは何も考えず、キクナの鼓動を聞く。
「今日ね……」
ジョンの髪をもてあそぶ、キクナの指が止まった。
そして、また動き出す。しかしその指の動きからは、困惑や、迷いをふくむ、粘り気のような心の変化が伝わってきた。
心なしか鼓動も乱れていた。ジョンが返事を返さないので、キクナは構わず続ける。
「今日ね、お兄ちゃんに出会ったの」そういったキクナの声は、戸惑いと、喜びが共生しているように聞こえた。
「今まで話してなかったけど、わたしにはね、兄妹がいたんだよ」照れくさそうにいった。
「訳あって家を飛び出してきて以来、五年ぶりの再会だった」
照れくさそうにした次は、感傷的だ。返事を返さなくても、かってに話し続けてくれるので、ジョンも気が楽だった。
「お兄ちゃん、昔から口は悪いけど、正義感は強くてよく、いじめられてるわたしを助けてくれたんだ」
ジョンはキクナの情報から、その人物の性格を構成していく。
「そんな人だから、『おれは、警察官になって、悪い奴らを捕まえ、ブタ箱にぶち込んでやるんだ!』って、わたしによく夢を語ってくれたものよ」キクナはのどを震わせ、コロコロと笑った。
悪い奴か、悪い奴、ジョンはその言葉がどうしようもなく、胸に引っ掛かり、何度も心の中で自分を戒めるように唱えた。
いま、自分が行っていることは、そして、これからも行ってゆくことは、キクナの兄がいう悪い奴の部類に入るのだろうか、と。
たとえ、相手も悪い奴だったとして、自分がしていることは不特定少数の者を救うことだとしても、自分がしていることは悪いことのなのだろうか。
自分が行っていることは正しいことなのだろうか。分からない、どれだけ考えようと、分かったためしがない。
唯一、分かることは、眼の前に立ちはだかった、困難を乗り越えた先に、きっと自分が理想とする、世界になるということだけなのだ。
「だけどね……。お父さんが、その夢を許してくれなかったの……」
キクナが顔を歪めたのが見ずとも分かった。
「お父さんはね。商人をしてて、お兄ちゃんに跡を継いでほしかったの」
「商人」ジョンはやっと固い口を開いたが、ただ繰り返すだけだった。しかし、キクナはその言葉だけで、ジョンが聞きたがっている問いを理解したようだ。
「うん、わたしのお祖母ちゃんはね日本で、着物や、巻物、絵画や、日本刀だとか、そういう海外受けする商品を貿易する商人をしてたのよ。すごい、やり手でね、それなりに儲かっていたらしいわ」
そこで、キクナはいったん、考えるように黙った。
きっと、幼いころに聞かされた祖母の話を、思い出しているのだろう。
「日本の鹿児島湾ってところから、世界と商売してたのよ。小さいころその話をお父さんから、聞いてお祖母ちゃんってすごいぁ~、って感服しきりだったわ」
キクナの声から、祖母に対する尊敬の気持ちがよく伝わってきた。たしかにそんな時代に女が商業をしているのだから、余程のやり手であることが分かる。
「でね、貿易先でお祖母ちゃんは最愛の人、オリヴァー・ランドーズと出会ったの」
キクナは夢見る少女のように〈最愛の人〉という言葉を強調していった。
「お祖母ちゃんはランドーズ家の籍に入ったから、わたしの姓がランドーズってわけ」
キクナは聞かれもしないことを、説明的に話してくれる。
「それから、わたしのお父さんが、生まれて。お祖母ちゃんの商売の跡を継いだの。だから、お父さんは、お祖母ちゃんから受け継いだ、家業を自分の代で途絶えさせたくなかったんだと思う」
また、キクナの声が曇った。この女の話は起動哀楽が激しい、が嫌いではなかった。
「お兄ちゃんが頑として跡を継がないもんだから、婿養子を取ることにしたんでしょうね……」
「それで、家出同然で逃げてきたのか」
婿養子を取るということは、キクナの父親はキクナとその婿養子を夫婦にさせるつもりだったのだ。
キクナは何も言わず、こくりとうなずいた。
「わたしは……。わたしは……」
キクナは声を絞り出すように、苦し気で、それでいて、感情の告白のような、真っすぐな声で続ける。
「ちゃんと心の底から、好きって、この人となら、一生添い遂げてもいいって、思える人とちゃんと恋愛して、泣いて、笑って、喧嘩して、仲直りして、本当の自分を見てくれる。そんな人とじゃなきゃ一緒になりたくなかったの……」
ジョンはキクナをぎゅっと抱きしめた。
その言葉は自分に対する告白、だったのだろうか……。ジョンには分からない。もし、そうだったとしても、自分はその気持ちに答えることができないのだから。
このまま、気付かないふりを決め込むしかできないのだから……。
そう、この危うい関係は、単なる遊びなのだから……。ジョンは自分を何度も、そう納得させた。
いたたまれなくなり、ジョンは上半身を起こした。そして時計を見る、もうしばらくしたら、出かけなければならない。
窓から差し込む月明りが、二人を照らした。ジョンはキクナを見た。
キクナはシーツで胸を隠した。どうして今ごろ恥ずかしがっているのか、ジョンは肩をすくめてみせる。
「仕事……?」キクナは体を丸め、上目遣いでジョンに問うた。
ジョンは首を小さく振る。「もう少し、――話を聞かせてくれ――」と微笑んだ。
キクナはパッと明るい顔になった。「ええ、いいわよ」と顔をほころばせながら、キクナはいった。キクナにつられるようにして、ジョンの表情もほころんだ。
できることなら仕事のことなど忘れて、ただキクナの胸の中で、キクナの話をずっと聞いていたかった。
もうしばらくは許されるだろう――。