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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
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case26 縄張り

 女は眼をしばたたかせなが彼を見た。状況が理解できないという様子だ。彼も同じだった。女は困り顔で、「えーと……」と言葉を探した。


 彼はどう言い訳したらよいのか考える。今までに体験したことがないほど、脳細胞がフル回転した。しかし、この状況でどう言い訳できるというのだろうか。目を白黒させながら、固まっていると彼は閃いた。


「あ、えっと……。こ、このメモ書き……落としましたよ……」と今さっき彼が拾ったメモ書きを、女に突き出した。女はあっけに取られたようすでロングスカートのポケットをまさぐった。


「あ! 本当だ!」と女は両ポケットを調べ、「本当にありがとう。それ大事なものだったの、きみが拾ってくれなかったら大変なことになってた」女は彼の手をつかみ、興奮気味にまくしたてた。


 彼は申し訳ないような罪悪感を覚えた。違うんだ……おれはあんたの物を盗もうとしてたんだ……と。しかし正直に打ち明けることはできない。


「これはね。お兄ちゃんからも」女がそこまで何かを言いかけたとき、彼は慌てて女の手を振りほどき踵を返した。「あ! ちょっと待って」


 女は逃げてゆく、彼の背中にいった。しかし彼はそんな声お構いなしに走る。女は追いかけてはこなかった。

 裏路地に戻って来たときには、彼は息があがり、これ以上走れそうになかった。


「ハハハ、まぁ、はじめてなんだから、失敗するわな」とチャップはおかしそうに笑った。カノンもミロルも笑った。みんなして笑うもんだから、彼は顔をしかめ不貞腐れてしまった。


「だけど、しまった、と思ったらすぐに引かなきゃなんねぇーぞ。あの女はそんな人間じゃなかったみたいだけど、人に寄っちゃあ、ボコボコにしてくる奴がいるからな」


 今まで笑っていたとは思えないほど、真剣な声でチャップは続けた。


「だから、駄目だと思ったら、逃げなきゃなんねぇーんだ。逃げることは恥ずかしいことじゃないんだからな」


 彼は息が整うのを待って、「ああ」と短く答えた。これ以上長くも、短くも彼には答えられなかった。


「まぁ、慣れなきゃ駄目ってことだ。今度はカノンがやるから、よーく見とけ。頼んだぞ、カノン」


「ああ、任せてくれ」カノンは手足をバタバタさせ、ついでとばかりに首を鳴らした。カノンは、スキップするかのように軽快な足取りで、人垣をぬって通る。

 

「見えるか」チャップがそういうので、「何がだよ」と彼は答えた。


 何のことを言っているのか、彼には分からなかったのだ。チャップは息を吐くかのように、さりげなく、とんでもないことを言ってのけた。


「カノンの手元をよーく見てみろ。目にも止まらないってのはああいうことだぜ」


 彼はチャップの手元を針の穴に、糸を通すような精密さで観察した。驚くことにカノンは人の横を通り過ぎる、間際にスっていた。

 ポケットに手を忍び込ませたり、カバンやポシェットをまさぐり、強いては懐にまで手を突っ込んで、スっていた。

 

「な、凄いだろ。あいつが一番、上手いんだぜ」とチャップはまるで自分のことのように自慢した。


 上手いなんてものではなかった。人間技とは思えないほどだ。


「だけどな、あいつの悪いところは、チョーしに乗るところなんだよなぁ」とチャップが言って間もなく、カノンは慌てたように駆け寄ってくる。


「逃げるぞ!」その言葉が出るよりも早く、チャップは彼の腕をつかみ走り出していた。


「チョーしに乗って、いっつも失敗すんだよ。あいつは」チャップは呆れ気味にいった。


 ミロルやチャップ、カノンと全力で走るのは、なんだか楽しいものだった。まるで、一つのことを共に共有する家族のようだった。こういうことを、家族というのだろうか。

 彼は笑っていた。


 裏路地をジグザグに曲がって、追いかけてくる人間を巻いた。大抵の人間は裏路地に逃げ込めば追って来ないそうだ。

 

 だから大抵は逃げられる。安全な場所まで逃げてくると、「たくなぁ~、もっと慎重にやれよ。捕まったら、どうするつもりなんだよ」


 チャップはカノンに説教をはじめた。しかしカノンは反省しているそぶりを全く見せない。それどころか、「まぁ、まぁ、多少スリルがないと、面白くないだろ」とそこまで開き直られれば、逆に清々しいほどであった。


「わかった、もういいよ」とチャップは手のひらをふった。「で、成果は?」


 チャップはこれ以上怒っても、体力の無駄遣いだとよく心がけているようで、説教もほどほどにカノンに問うた。


「ええと、財布が三つと、ハンカチ、だな」


「どうしてハンカチなんか」彼はカノンが持っている、何の花か分からないが、赤い花だということは分かる花が刺繡されたハンカチを指さしていった。


「ああ、手当たり次第につかんだものを、スってるからな。たまに関係ないもんも掴んじまうんだ。セレナにでもやるか」


 カノンはハンカチをひらひらさせながら、いった。

 そのとき、チャップは血相を変えて、「おい……ここ、ヤバくねぇーか」とせわしなく、周辺を見渡しながらいった。


 するとカノンとミロルは、周辺を見渡して、冷や汗のようなものを浮かべたのが分かった。


「どうしたんだ……? 何がヤバいんだよ」と彼は不安げに質問する。分からない方が怖い。三人の反応が余計に恐怖を倍増させた。


「俺たちには縄張りってもんがあるって、昨日話したよな……」


 彼は固唾を飲み込みながら、うなずいた。


「逃げるのに夢中で気付くのが遅れたが、ここは俺たちの縄張りじゃない……。もし、今見つかったら、えらい目に遭う」


「見つかったら、えらい目に遭うって……誰にだよ……?」


「だから、あいつらに、見つかる前に、逃げるんだ」


 チャップは今までに見せたことがないほど、焦っていた。逃げるため、L字を曲がったとき、「逃げるって、連れねぇーなぁ。チャップよぉ~」と進路を妨害するように、チャップと同じほどの年頃の、少年が立ちはだかっていた。


「せっかく来たんだから、俺たちに挨拶していけよぉなぁ~」少年は鋭い笑みを浮かべた。その笑みで、皮膚が切れそうなほどだ。


「挨拶をしたら、俺たちを返してくれるのかよ……」チャップも苦笑いを浮かべた。

 気が付くと後方にも、二人の少年が立ちはだかり進路をふさいでいた。こういうのを袋の鼠というのだろうか、と彼は考えた。


「まぁ、そのときの気分にもよるよなぁ。それに、てめぇーたちが、勝手に人様の縄張りに入って来てきて、文句もなにもないだろう」


「逃げるのに、夢中で分からなかったんだ。今日の成果の半分をやるから、そこを通らしてくれ……」


 少年はゆっくりと、チャップに近寄った。手を伸ばせば届く距離だ。犬がにおいを嗅ぐかのように、少年は顔を近づけた。


「額にもよるよなぁ~」


 チャップはあごをしゃくり、カノンにうながす。カノンは渋々懐に入れていた財布を地面に投げた。

 少年は財布の中身をすべてひっくり返し、「たったこれだけかよぉ。しけてやんな」とガッカリしているようだった。


 少年の態度から穏便に見逃してくれる、という選択肢を期待しないほうがいいことを、彼は悟った。

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