case25 初仕事
「じゃあ、俺がやるからよぉーく見てろよ」そう言い残し、チャップは人通りの多いい、市場に飛び込んだ。
その一歩を踏み出すにも迷いがなく、慣れという洗礼された無駄のない、踏み出しだと思われた。
それからのチャップは素早かった。まず狙いを付けたのは、宝石をハムのような指にはめた女だった。つばの長い帽子を浅くかぶり、尻を振りながら歩いていた。女の歩き方はアヒルを彷彿とさせられた。
「あの女の人のカバンをひったくるのか……?」彼は恐る恐る、カノンに訊いた。
裏路地の影から半身を覗かせ、カノンはささやくようにいう。「いや、ひったくるのは最終手段だよ。バレることなく、スレればそれに越したことはないだろ」
たしかにそうだな、と彼は納得した。
「おい、ニック」カノンは手をこまねいて、「しっかり見てろよ。あっという間だぞ」というもんだから、彼は瞬きをできるだけこらえて、チャップの一挙手一投足を見逃すまいと見つめた。
カノンが言うように、あっという間の出来事だった。チャップは気配を消して、女の後ろに影のように張り付くと、カバンのすき間に手をスーッと、入れた。
「人が多いいほど、気付かれずらいんだよ」とカノンはおかしそうにいった。彼は不思議に思い、「どうして」と問うた。
「人が多いいとぶつかっても、それほど気にしないだろ。だから、スリっていうのは人が多いいところでやらないと、駄目んだんだ」
カノンは鼻高々に説明する。彼は、「へぇ~」だとか、「そうなんだな」と相づちを入れながら、もう一度チャップを見た。
チャップの動きは華麗だった。慣れているのだから、当然といえば、当然だが、女はスリに遭ったなど微塵も思っていない様子だ。
チャップは女からスッた財布を、何食わぬ顔でポケットにしまい、口笛でも吹かんばかりに、彼のもとへ帰ってきた。
「どうだ、こうやって、やるんだぜ」
脱帽としか、言いようがない。
チャップと同じようにやってみろ、と言われても無理な相談だ。なぜなら彼は置き引きと、店に並べられた食べ物しか盗んだことがないのだから。
きっと、カバンに手を突っ込んだ時点で、気付かれ袋叩きにされるのが目に見えていた。
「すごいけど……。おれには到底できそうにないな……」彼は引き腰で答える。
「そんなことないぜ。何でも経験だ。俺も初めのころは、上手くできなくて、見つかって何度も殴られたぜ。失敗を恐れたら上手くなるもんも上手くなんねぇーぞ」
決して誇れることではないのだが、そういうチャップを彼はカッコいいと思った。
そうだな……殴られる覚悟でチャレンジしてみなきゃ、上達しようもないもんな、と彼はこの世の真理を悟ったような開けた感覚を覚えた。
「たく~、あんなおばさんに限って、財布の中はちんけなんだよなぁ」
チャップはいまスッったばかりの、女の財布を開き中身を確認していた。チャップのその態度から、それほどの額が入っていなかったのがうかがえた。
「ああいう、いかにも金持ちっておばさんに限って、持ち歩く額はしれてるんだぜ」チャップは補修的に言い添えた。
彼は、「そうなのか」としか答えられない。
「まぁ、大金を持ち歩く奴なんていないからな。だけど一つ言えることは、ああいうおばさんはな、他人の眼を気にして金持ちぶってるが、実は大した金持ちじゃないってことだ」
カノンもミロルもうなずいている。「そういうもんなのか」と彼は答えた。分からないのは彼だけだ。
「金持ちっているのはな、歩いてるだけで、ああ、あいつは金持ってんなぁ~、って分かるやつのことをいうんだぜ」
本当なのか、嘘なのか彼には判断がつかない。しかし、この三人がいうのだから、本当なのだろう、というわけのわからない、自信だけはあった。
「これだけじゃあ、みんなの晩飯代にもなんねぇーな。もう、二、三人はやんなきゃだめだ」
チャップは小銭を手でもてあそびながら、いった。
そして、彼の方を見る。彼は悟った、ああ、今度はおれの番だな、と。
「ニック、足は速かったよな」
彼は曖昧に首をかしげた。
速いか遅いかなど、彼には分からない。計ったことがないのだから。
「謙遜すんなって、だって、俺を捕まえたじゃねぇーか」
「いや、あのときは、自分でもわけがわからなくて……。体の内側から、力が溢れてきたっていうか……」彼は慌てて、言い添えた。
「体の内側から、力が溢れてきたんだろ。つまり、ニック自身の力ってことじゃねぇーか。もし、気付かれたら、俺たちのもとまで走ってこい。路地裏にさへ逃げちまえば、絶対に捕まることはないから」とチャップは彼に気合を入れるように、背中をたたいた。
「な、分かったな。バレたら、すかさず逃げるんだぞ」
「あ……ああ……」とおざなりに答え彼は勇気を振り絞り、足を踏み出す。突然、暗い場所から、太陽の光が降りしきる、明るい場所に出たせいか、視界が一瞬真っ黒に塗りつぶされた。
それも数秒のことだったが。
どういう、人間を選べばいいのか、彼には分からない。彼にはどの人間も大して変わらなく見えた。
とにかく、着飾っている人間を探せばいいのだ。鼓動が早くなってきた。頭が信じられない速さで、回っている感覚がある。
それは逆に頭を白くさせ、考えられなかった。
そのとき、彼は眼の前にいた、長い黒髪の女に狙いを定めていた。
べつに、無差別殺人犯が、獲物を定めるときのように意味があったわけではない。目の前にいた、ただそれだけのことだ。
女は買い物帰りなのか、抱くようにして、両手に紙袋を持っていた。紙袋から、りんごと青野菜が覗いている。
両手が塞がれた状態だ。これなら、気付かれたとしても、逃げるまでの刹那は時間を稼げると、彼はふんだ。
がくがくする足を気力だけで、前進させながら、彼は女の背後にたった。小さなポシェットを女は肩から、かけていた。
大丈夫、落ち着け、落ち着け、ただすれ違うときのように、スムーズに。彼は何度も心の中でイメージトレーニングする。
彼は女の斜め後ろを並行して歩いた。そのとき、女のポケットから何かが落ちた。紙切れのようだ。彼はその紙を拾い上げた。そこにはわけの分からない、数字が書かれていた。
それと少しの単語だ。字が読めないので彼には内容までは分からない。
メモ書きに見入っていると、女が立ち去ってゆくので、慌てて彼は女を追いかけた。再び女の斜め後ろに付くと、ポシェットのマグネットを外す。
気付かれていない、大丈夫。このまま、焦らずゆっくりとポシェットの中をまさぐっていると、そちらにばかり気をとられて盲目になっていた。
彼はポシェットにだけ気を取られて、目の前が見えていたなかったのだ。チャップやカノン、ミロルならこんな失敗は絶対に犯さなかった。
それは、経験というものだ。彼は目の前から、歩いてきた人間にぶつかった。その反動でポシェットを掴み、引っ張るかたちになる。
突然ポシェットが引っ張られたことに、女は驚き振り返った。女以上に、眼を見開いたのは、彼だった。彼は開いた口がふさがらない。足が固まって逃げるという、概念すら忘れていた。




