case22 普遍的な日常と幸せ
少女が嘘をついているようには見えない。だとすれば、何が目的だというのか。以前から度々感じていた気配はこの少女の物だったらしいことは分かったのだが、若干違う気がしないでもない。
逃げるのが正解か。いや、どうやらこの少女からは逃げられそうにない。
ジョンは相手の力量と自分の力量を、対比する能力に長けている。それは野生動物のそれに近い。この少女は見た目以上に俊敏で、野性的ということが感じられた。
「わたしもあの男が大っ嫌いだったの」少女は顔をほころばせた。
「あの男とは誰のことだ」ジョンは訊き返した。
「昨日あなたが殺った、あの男のことよ」少女は笑顔を崩すことなく、話す。
あの強姦魔のことをいっているのか、ジョンは悟った。どうして、この少女がその話を知っている。
あの場には、あの男以外の気配はなかった。
「どうしてそのことを知ってるんだ」
ジョンがそう訊くと少女は、「フフフ」と不気味な人形のように血の気のない笑顔を浮かべ、「それだけじゃないわ。強欲な金貸しの老婆を殺したときも、我が子でも平気で犯す狂った父親を殺したときも、男を食い物にする女を殺したときも、妻に性的暴力を振るう男を殺したときも、わたしはずっとあなたを見てたのよ」と言って見せた。
どうしてこの少女は、そんな話まで知っているのだろう。たしかにジョンは過去にそれらを始末したことがあった。少女がでたらめに言っているようには思えなかった。
「その話を私にして、どうするつもりだ」ジョンは首をかしげた。
「どうもしないわよ。ただわたしが言っていることが嘘じゃないって、分かってもらいたかったの」
「たしかに、嘘じゃないってことは分かった。だけど、私にその話を教えてどうするつもりだ。脅すつもりなのか」ジョンは冷たく笑った。
少女は屍のような白い頬を、桜色に高揚させながら涙を浮かべんばかりに笑った。
「もし、わたしがそのことをネタにして、あなたを脅したらあなたはどうする。あなたが殺した人たちと同じように、わたしを殺す?」
少女の真意は読み取れない。「不本意だが、場合によってはそうなるかもしれない。私はまだ捕まるわけにはいかないんだ」
「そう、わたしもあなたが捕まってしまったら、面白みに欠けるわ。だから安心して、わたしはあなたを脅したりしないから。人を脅すなんて、強姦にも劣る卑劣な真似、わたしは大嫌いなの」
少女の口から〈強姦〉という単語を聞くのは大人が赤ちゃん言葉で話すのを聞いたときのような違和感を感じた。
「そうか」ジョンは改め少女の目を見つめた。「それなら、君のためにも私には関わらない方がいい」
少女は小首をかしげた。「どうして?」今まで大人びていた少女は、年相応の可愛らしい声を出した。
どう答えるべきか、ジョンは少女から目をそらしてしばらく考えた。「私に関われば、痛い目を見る」と嘘ではない的確な答えを返した。
「痛いのはイヤね」人形のように整った顔がはじめて歪んだ。「だけど、あなたと別れるのもイヤだわ」
「君は私が怖くないのか」
「あら、どうしてあなたを怖がるの?」
ジョンは自分が行っていることが、世間一般では、悪事に入ることをちゃんと理解している。理解したうえでジョンは続けていた。
「あなたが人を殺すから? ――そんなこと全然怖くないわよ。だって、わたしはあなたを好いているんですもの。わたしだけじゃないわ。あなたを信仰している者は、あなたの行いで救われた人は沢山いるのよ」
少女は目に見えない本をめくるように空に指を這わせた。そして見えない本を読むように遠いいところに目を這わせた。
「君の目的は何なんだ」
少女は自分の長い髪の毛の先をもて遊びながら、「わたしの目的? 強いていうならある駄作を捜してるのよ」
「駄作?」ジョンがそう問い返したとき、少女は猫のようにピクリと耳を動かした。
「もっと話したいのはやまやまだけど、今日はこの辺でお別れね。お姉さまが呼んでるの。話せて楽しかったわ」といって少女は踵を返した。L字の角を曲がり少女は消えてしまった。
ジョンが少女が曲がった、角を数秒遅れて確認したときにはすでに少女は見えなくなっていた。
*
ジョンがやっとのことで帰ってきたときには、すでに太陽が地平線にさえぎられ夕暮れになっていた。まだ、時間はある。焦ることはない、とジョンは思った。
「あ、おかえりなさい!」キクナは子供のように出迎えた。
さっき会った少女の方がよっぽど、大人らしく思えてしまうほどにだ。「遅くなってすまない」
「いえ、そんなこと気にしなくても大丈夫よ」キクナはジョンのコートを脱がして、いつものようにハンガーにかけた。
「ごはんできてるけど、食べる」
キクナのその言葉を聞き、朝から何も食べていないことを思い出した。帰る家があり、待ってくれている人がいて、ごはんが用意されている、こういう当たり前を人々は幸せというのだろう。
当たり前のことを幸せというのだ。
しかしその幸せというものを、どれほどの人々が気付いているだろうか。きっと気付いている者など、この世にはいないのだ。
もしいまキクナが自分の本当の姿を知ったら、この幸せは壊れてしまうに違いない。いまでなくても、いつかは――壊れてしまうのだろう。
キクナと出会うまでは、恐れるものなど何もなかった。死さへも彼に恐怖を与えることはできなかった。
しかし、今は違う。いつかは硝子ようにバラバラに壊れてしまう、危ういこの関係をジョンは何よりも恐れていた。
このまま、この生活が普遍的に続くのなら――ジョンはそんな夢物語を最近よく考える。
しかし、もう後戻りはできない。いま自分が歩んでいる道は、引き返すことができる甘いものではない。進も地獄、戻るも地獄なら、前に進むしかないのだ。
「ああ、食べるよ――」ジョンは悲しみを心に秘め、いつもと変わらない平坦な声で告げた。
キクナがキッチンへ去ろうとしたそのとき、ジョンは背中からキクナを抱きしめていた。
この女さへいなければ、自分は昔のような心を持たぬ、でくの坊に戻れるのだろうか。
きっと戻れるのだろう。幼き日に己に誓った、正義を果たすためにはどんな犠牲でも払うつもりなのだ。
青い筋の浮かぶ、この細い首筋に牙を突き立てれば、自分の恐怖は終わるのだ。昔と変わらぬ感情を捨てた怪物に戻れるのだ。
「ど……」そこでキクナは息を飲んだ。「どうしたの、急に……」と優しい声で改めて訊いた。
キクナの鼓動がだんだんと早くなってゆくのが、背後らでも分かった。いま自分はこの女の心臓を掴んでいるのだ。自分の意志で握りつぶすことができる。
「どうしたの、悲しいことでもあった……?」
キクナはジョンの手の甲に、小さな手のひらをかざした。ああ、あと少しだけこの女といさせてほしい――。例え、悲しい別れになろうとも、この温もりを糧に自分はまた怪物となる――。




