case15 不特定、多、少数
「どうだった、何か変わったことあった?」
この女はキクナといった。アジア系の顔立ちをしている、本人は日系三世だといっていた。日本人らしい、艶のある純黒の長い黒髪。
垂れ眼気味で優しい印象を相手に与える。それでいて、瞳の色はブラウンがかっていた。
「いや、別に変ったことなんてなかったよ。子供にカバンをひったくられて困っている人がいたから、カバンを取り返してあげたくらいだ」
キクナはジョンが着っている黒いコートを脱がせ、ハンガーにかけた。
「それは十分変わったことっていうと思うな」キクナは諭すようにいった。
「ああ」ジョンはしばらく考えて、「――そうだな、それは変わったことなんだろうな――」と自分でいって、自分で納得した。
綺麗に片付けられた、リビングに入ると迷うことなくソファーに座った。キクナもジョンの斜め横に座った。
「そうだよ。それは変わったことっていうんだよ。それは日常じゃない、非日常っていうんだよ」キクナはあらためて、さっきの話を持ち出した。
ジョンは深くソファーにもたれかかり、非日常というものを考える。非日常というのは、不特定多数の人間が日常だとは思わない日常をいうのだ。
つまりその不特定の多数の人間の常識の範疇で、あるかどうかの問題だ。
非日常とは、不特定少数の人間の当たり前の日常のことだ。つまり私は、その不特定少数の人種に入るのだろう。と、ジョンは考える。
「つまり、私はその非日常を体験したんだな――」
キクナはやさしそうな眼を、ちょっとばかり険しくして、「だから何度言えば、分かってくれるのかな? わたしの前では一人称は私じゃなくて、ぼく、とか、僕、とか、おれとか俺にしてよっていってるじゃない……? 男らしくないし、堅苦しいよ」
「ああ、そうだったな……。――だけど、もう直らないんだ。癖ってやつで」
するとキクナは歯がゆそうな、顔をした。
「いったい、いつから自分のことを『私』っていうようになったの? 小さい男の子がじぶんのことを『私』っていってると、友達にからかわれなかった?」
ジョンはキクナを横目でうかがい、憂をおびた眼を向けた。
その眼を見て、キクナは怯んだように押し黙った。
「本当にいつからだったんだろうな。気付いたときには、自分のことを私っていってるな。たぶん昔から変わった子供だったんだろうな」
「まぁ~、たしかに変わってると思うよ。だけど変わってるか、変わってないかなんて、不特定多数の偏見が決めることだから。人間はね。自分と違う人間が許せないんだよ」
この女はたまに、変わったことをいう。
しかしジョンはそんな女が嫌いではなかった。
「どうして許せないんだ」
「もっと正確にいうと、許せないんじゃなくて怖いんだと思う。自分の考えと違う考えを持っている人が。人間って分からないことを恐れるの。だから勉強して分かろうとするんだよ。弱い人は相手のことが許せないの。本当に強い人は、相手のことを知り受け入れられる人のことをいうんだよ」
キクナのその話を聞いて、ジョンは思った。そうか自分は弱いんだ、と。だから自分と違う考えを持つ、他者を許せないんだ。
本当に世界を救えるのは、この女みたいな人間なのかもしれない。ジョンはただ、輝かしく語るキクナに魅せられた。
「え、なに……? そんな顔して。あ、もしかして知ったようなこといってると思ってる? これはね、わたしなりに考えた心理なんだよ!」
そこまで言ってキクナは、顔をおとし押し黙った。
「ほら、わたしって日系人じゃん。だからジャップ、ジャップって小さいときから言われてきたんだ……」痛々し気にキクナはいった。「――どうして日本人って嫌われてるのかな……? 別にわたしが悪いことしたんじゃないのに……」
キクナは涙をこらえるような、湿り気のある声でジョンに訊いた。ジョンは答えられなかった。
「それで、わたしは考えたの、得体が知れないから恐れられるんだって。だって日本人って得体が知れないでしょ? なんでも、そうでしょ。得体の知れない、食べ物とか食べるの怖いでしょ? それと同じなのよ」
そこまでしゃべって、キクナは急に態度を一転させ明るくいった。
「ああ、ごめんね。なんか暗い話しちゃって……。しんみりしゃちゃったね……。紅茶でも入れようか」
キクナは逃げるように、立ち上がった。そして、キッチンに消えようとしたそのとき、「自分で考えて出した答えなら、それは凄いことだ。世の中には自分で物事を考えないで、物事を判断する人間が大多数だからな。自分の考えを持てる人は、強い人だ。だから、キクナ――君は強いよ」
キクナは振り返ることなく、ジョンの話を聞いていた。しばらく、その場に立ち止まってから、キクナは振り返り、「ありがと」と言い残しキッチンへ消えた。
トレイに、花模様の入ったティーカップを二杯乗せて再びキクナがあらわれた。
ジョンの分の紅茶を、ジョンの前に置き自分の分もテーブルに置いた。紅い液体から立ち上る香りは、花畑を吹き抜けるつむじ風のような、鼻を抜ける香りがした。
「話は反れちゃったけど、そのカバンを取り返したっていう話を聞かせてよ」キクナは紅茶を優雅に紅茶をすすり、ティーカップをテーブルに置いた。
「べつに、大した話じゃないさ」
「大した話じゃなくても、聞きたいわ。暇だもの」
はてさて、どう話すべきなのだろうか。ジョンはほとほと困り果てた。こういう場合は、隠し立てして話に矛盾がでるより、正直に話した方が賢い判断だろうなとジョンは思った。
「街道を歩いていたときに、ひったくりの現場を見たんだ。それで、そのひったくられた男が、追ってくれっていうもんだから、裏路地に逃げ込んだ子供のあと追った。それで、取り返してカバンを持ち主に返した。それだけだよ」
「だけどよく捕まえられたわね。あのあたりの子供たちは、裏路地に逃げ込んだが捕まらないって聞くわよ。裏路地は子供たちのホームグラウンドだから、入られたら絶対に捕まらないって」
ジョンはキクナの好奇心旺盛な態度とは対照的に、ゆっくりと紅茶をすすった。じらすように。
「私が追いかけるもんだから、子供は驚いてこけたんだ。それで捕まえられたのさ」
「追いかけられることには、慣れているはずなのにこけるかな? それもホームグラウンドで」
「猿も木から落ちる、っていうだろ」
キクナは腑に落ちない、というような顔をしたがそれ以上は聞いてこなかった。
そんなくだらない、話をしているあいだに、日は沈み窓ガラスは鏡のように、ジョンの姿を映し出していた。
映し出された自分に顔はなく、ただ黒く絵の具を混ぜたような抽象的な暗黒がそのにあるだけだった。窓に映る自分を見ながら化け物だな、とジョンは思った。
ある哲学者はこんなことをいった。
(汝が深淵を覗き込むとき、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ。怪物と戦うものは、己も怪物とならないように、気を付けねばならない)
本当にそうだろうか、怪物と戦うものは、自らも怪物にならなければ戦えないのではないだろうか。――なぜなら、怪物に対抗するためには、怪物をぶつけるのが一番手っ取り早いのだから。
さあ、仕事の時間だ――。




