case14 セレナとアノン
彼は呆然と、ただ時間から置いて行かれ、忘れ去られたような廃墟を見つめていた。
「どうだ、凄いだろ! ここが俺たちの基地なんだぜ」チャップは苔がはえたレンガの上を、テクテクと歩きながら九龍城砦のような廃墟を背に、誇らしくいった。
周辺を建物で囲われているが、ここ一帯だけはくり抜いたようにぽっくりと穴が空いていて、まるで箱庭の中にでも迷い込んだように感じられた。
「ああ、すごいよ……。すごく綺麗だ」彼は声を震わせながらいった。
「だろ、この路地裏を知り尽くしている者じゃないと、絶対にたどり着けない場所だ。俺たち以外、誰も来ることができない。脅かすことができない。世界一安全な楽園だ!」
ラビリンスを抜けた先は、楽園だった。
こんな、すさんだ路地裏に楽園があるなど誰が想像できようか……。
「ニックにはこれから、ここに通じる道だけでも、覚えてもらわなきゃなんないがな。迷ったら帰って来れないから」
たしかにこの路地裏で迷ったら帰って来られない、可能性がある。いや、帰って来られない可能性しかない。このさいアリアドネの糸のように紐でも体に繋ごうか……? と彼は考えた。
「ああ、頑張って憶えるよ……」彼は苦笑いで答えた。
チャップはおかしそうに笑い、前方に鎮座し存在感を漂わせている三階建てほどの建物の入り口に顔を突っ込んだ。
「お~い! 帰ったぞ!」
チャップは大声で、叫んだ。チャップが話していた、仲間だろう。たしか名前は何だっただろう……? 彼は今さっきのチャップの言葉を脳内再生するが、まったく憶えていなかった。
どうやら、自分は人の名前を覚えるのが、苦手なのかもしれない。
「チャップが帰ってきたよ!」建物の中から高い声が聞こえた。
声は高いが、女ではないようだ。
まだ声変わりをしていない、少年の声だ。
その声が弾みながら階段を駆け下りてくるのが聞こえる。
「ああ、大人しくしてたか」
廃墟からあらわれた少年の頭を、チャップは撫でた。少年は猫のように眼を細めされるがままだったが、後ろにのそっと立っている彼を見つけると、眼を見開いた。
「そ、その人誰なの……?」
少年は不安げに、チャップの顔を見上げた。チャップと少年は頭一つ分ほどの身長差がある。歳のころはチャップよりも数歳若く、あどけない。
「紹介するよ。今日から新しく仲間に入る、ニックっていうんだ。仲良くしてくれ」
少年はチャップの後ろに隠れ、腕のすき間から彼を観察する。
そして少年に続いてあらわれたのは、少女だった。
建物の影から、日向に出てくるとその肌が褐色色なのが分かった。黒人とのハーフなのかもしれない。憂を帯びた栗色の瞳、長い黒髪。深い褐色の肌。かわいい、というよりかは、綺麗という印象を受けた。
「あ、セレン、今日から新しく仲間に加わることになった、リックだ仲良くしてやってくれ」
この少女はセレンというらしい。セレンの何もかも飲み込むような、深い栗色の瞳が彼を見つめた。セレンの瞳に反転した彼が映った。
なんとあいさつすれば、いいのだろうか……。彼はただ立ち尽くしていた。
「あなた、名前は?」彼が何もしゃべらないのを見ると、セレンはいった。
「だから、リックだって今教えたじゃないか」チャップがあきれ気味にいうと、「あたしはこの子に聞いてるの」と厳しく突っぱねて、「で、名前は?」と再び彼に問うた。
おれは試されているのだろうか、と彼は深読みし不安になった。
「リ、リック……」まだ体になじんでいない、名前を彼は言葉に出した。
「ファーストネーム?」
セレンは小首をかしげた。ファーストネームとは、何のことだ? 彼はファーストネームという概念を知らなかった。いや、憶えていないだけかもしれない。
困り顔で彼はチャップを見る。
「あなたも名前を持ってないのね」セレンは平坦な声でいった。
セレンのその言葉を聞いて、彼は本当に困惑した顔でチャップを見た。どうして、そのことを知っているだろう。
チャップがそのことを話していないのは、まじかで見ていた彼が一番よく知っていた。
「ど……どうして、そのことを……?」彼はセレナに問うた。
「別に珍しいことじゃないのよ。あなたみたいな、子供は。あたしもチャップに名前を付けてもらったから、分かるのよ。ここにいる子供たちは、みんなチャップが名付け親なの」セレナは流れるような平坦な声で、そういった。
セレナの言葉はあらかじめそう語ることが定められていたかのように、よどみがなかった。
「ああ、おれには名前がないんだ。きみたちと同じだよ。この名前もここに来る前、チャップが付けてくれたものだ」
するとセレナは、感情のない眼で彼を見つめた。
セレナは右手を彼に突き出す。
「リック。――リック憶えやすい名前。いい名前ね。これからよろしくね、リック」セレナは何度も彼の名前を口の中で、溶かすように唱えていた。
この手の平を突き出す行為。彼は知っていた。友好の証だ。彼はセレナの手のひらを握り返した。セレナの手はチャップとは違い、ひんやりと冷たかった。
その光景を見ていた少年はチャップの後ろから顔を出した。まるでウサギが巣から顔を覗かせるように、愛らしかった。
「新しい……家族なの……?」顔だけを覗かせて、少年はいった。
好奇心と恐怖をはらんだ、少年の顔だった。おれは家族なのか? チャップの顔を見ると優しくうなずきかけてくれた。
ああ、そうだ、そうなんだ、「おれは……おれは……。今日から君たちの家族に入った、リックって言うんだ」今度は彼の方から、右手を少年に差し出した。少年はうじうじと困惑し、怯えながらチャップの影から出て彼の右手を握り返した。
「ぼ、ぼくはアノンって言うんだ。よろしくね」
アノン。家族の名前。アノンの手は小さくて、彼の手でも包み込めるほど小さくて、温かかった。
そのとき、背後からこちらに駆けてくる足音が聞こえた。アノンは彼の手を離し、その足音の方へと駆け出した。
「お兄ちゃん! 大丈夫だった!」アノンはそう叫びながら、お兄という少年に抱きついた。
少年は息も絶え絶えに、アノン言う。「ああ、ハァハァ。大丈夫だ……。大丈夫……」そこで少年は口に溜まった唾を一度飲み込み、「それより見て驚くなよ!」と興奮気味にいった。
少年はアノンを離し、自分のにぎりこぶしを突き出した。
チャップやセレナも少年のもとへ向かった。
「みんな見て驚くなよ」
そう心の準備をさせるようにいって、少年はゆっくりとこぶしを開いた。少年の手のひらから、黄金に輝く金貨が顔を覗かせた。




