case13 九龍城砦のような廃墟
「本当に何も憶えていないのか? 少しでも憶えていることがあったら、教えてくれよ?」
彼は少年に導かれるまま、入り組んだ路地裏を進んでいた。
少年はまるで自分の庭を歩くように、路地裏を歩いた。
「憶えていること……」彼はうなった。
「わるい……。そう無理に思い出そうとしなくていいぞ」
「いや、気にしないでくれ。憶えているのは、街道の端に座っていたところからだけなんだ……」
少年は彼を横目に見て、再び前を向いた。
「まるで赤ちゃんのような、気分だった。ある日を境に記憶があるんだ。あとは君に出会う数か月の間、道端で行き交う人間を見てた」
「食べるもんはどうしてたんだ? 恵んでくれる奴がいたのか」
彼は手に持っている、紙袋に視線を落としてあの男のことを考えた。
「いや、恵んでくれる人はいなかった。盗んでたんだ。店から。だけどよ、何だか疲れてこのまま死んでもいいかな、って思っていたときにこのパンをもらったんだ――初めてもらった」彼は視線を紙袋に落とした。「この世にはやさしい人間もいるんだな、って初めて知った。まだ生きてみようかな、って思えたんだ」
すると少年の顔がくぐもった。「ああ……。それで大事にしてたのか……。そりゃあ、大事だよな……。本当に悪いことしたな……」
彼は少年の横顔をうかがった。少年の表情は本当に、心から詫びている顔だった。
「おれはもう気にしてないから、気にするなって」彼はそう少年を励ました。
「ああ……。おまえの言うとおりだな。この話はもうこれで終わりにしよう。すんだことを蒸し返すのは、馬鹿のやることだからな」
少年は手のひらを頭の上で組み、くるりと回った。
「ところでよ。名前を憶えてないんだったら、新しく付けないといけねーよな。おまえ、おまえって呼ぶのも、アレだし」
たしかにそうだな、と思う彼。名前とは二人の人間がいて初めて意味をなすのだ。一人だけなら、自分は自分でいいのだから名称などいらない。
しかし人間が二人いる以上は、お互いを区別する名称が必要だ。
「そうだな。おれにも名前があった方がいいよな」
「もしよければ俺が付けてやるよ」
自分に名前が付くのか。それは誰もがもっている当たり前のものであるが、自分にはないものだった。
「ああ、お願いするよ」
少年の顔がパッと輝いた。「そうだなあ~、分かりやすくて、呼びやすい名前がいいよな……」
それから少年はしばらく、黙ったまま考え込んだ。
よほど悩んでいるのか、「うん~」だとか、「むん~」だとかを苦しそうに口から漏らしている。名前を決めるだけなのにそこまで、悩むものなのか。
名前とはそれほど大切なものなのか……。
「そうだな、ニックっていうのはどうだ? 呼びやすくて、分かりやすい。それに愛嬌もあるだろ」
少年は自信満々にいった。ニック……。それがおれの名前……。彼は何度もニックと言う名を口の中で転がした。まるで体に塗り込むように。口が覚えるように。
「ああ、今日からおれは、ニックだ」
彼がそういうと、少年は立ち止まり彼に向き直った。
そして彼を真正面から見つめ、右手を差し出す。
「これからよろしくな、ニック!」
彼は少年の差し出された手を、興味深げに見つめた。この手はどいう意味なのだろう。
彼は握手という概念を知らなかった。だから少年が差し出した手の意味も分からない。
少年は手を出さない彼を不思議に思い、それでいて不安そうな顔をした。「どうした……?」
「あ……いや……。その手はなんなんだろって思って……?」
彼の言葉に少年は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに説明してやる。
「これはな、握手って言って。友好の証なんだ」
「友好の証」
彼は少年の言葉を反復し、差し出された手を再び見つめた。
彼は自分の右手を持ち上げ、彼の握り返した。思えば人間の手を握ったのは、憶えている限りはじめてのことだった。人の手というのは、これほどまでに温かいのか……。
「よろしくな、ニック!」
「よろしく……」そこで彼は言葉を飲み込んだ、少年の名前を知らないのだ。「ええっと?」
それで彼は名前の必要性を実感した。名前というのは、こういうときに使うものなのだ。
「ああ、そうだった、そうだった。まだ俺の名前を教えてなかったな。わるいわるい」彼に差し出した手で頭を掻きながら、少年は笑った。「俺はチャップって呼ばれてるんだ!」
チャップという名前を知った途端に、彼には少年が存在する一人の人間なんだ、と実感した。
名前というのは、一人の人間が存在している証なのか。彼はそう思った。
「よろしく、チャップ!」
「ああ、よろしく、ニック」彼とチャップは固い、固い握手を交わした。
それから、ニックと名付けられた彼は複雑に入り組んだ道を歩きながら、チャップに仲間のことを色々と教えてもらった。
もっと沢山の子供たちがいるのかと思っていたが、どうやら仲間は五人だけなのだそうだ。チャップをリーダに、カノン、アノン、ミルロ、セレンという五人で生活している。
チャップから話を聞くと、ストリートチルドレンの世界でも、派閥というものがあり、仲間を取り合っていると。まるで猫のような縄張り争いが、日々繰り広げられている。
「ニック、見て驚くなよ」とチャップはいたずらっ子のように笑った。
いったい何を驚くなよ、といっているのだろう。彼には意味が分からなかった。
チャップがL字の角を曲がったので、彼もあとを追い曲がったとき。幻想的な光景が彼の目に飛び込んだ。
「ここが、俺たちの住みかだ」
迷路のような裏路地を抜けると、太陽の光が広場のように開けた一帯に照り、エメラルドグリーンに輝く苔が廃墟の建造物を包み込む光景。
それはまるで香港の九龍城砦の一部のようであった。
世界の時間から置き去りにされたような、ノスタルジックな雰囲気がその一帯を取り巻いていた。
チャップは広場の真ん中に走り寄り、くるりと振り返った。そしてわんぱくな笑顔を満面に浮かべ、いった。「おかえり、ニック」




