表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
52/323

case13 九龍城砦のような廃墟

「本当に何も憶えていないのか? 少しでも憶えていることがあったら、教えてくれよ?」


 彼は少年に導かれるまま、入り組んだ路地裏を進んでいた。

 少年はまるで自分の庭を歩くように、路地裏を歩いた。


「憶えていること……」彼はうなった。


「わるい……。そう無理に思い出そうとしなくていいぞ」


「いや、気にしないでくれ。憶えているのは、街道の端に座っていたところからだけなんだ……」


 少年は彼を横目に見て、再び前を向いた。


「まるで赤ちゃんのような、気分だった。ある日を境に記憶があるんだ。あとは君に出会う数か月の間、道端で行き交う人間を見てた」


「食べるもんはどうしてたんだ? 恵んでくれる奴がいたのか」


 彼は手に持っている、紙袋に視線を落としてあの男のことを考えた。


「いや、恵んでくれる人はいなかった。盗んでたんだ。店から。だけどよ、何だか疲れてこのまま死んでもいいかな、って思っていたときにこのパンをもらったんだ――初めてもらった」彼は視線を紙袋に落とした。「この世にはやさしい人間もいるんだな、って初めて知った。まだ生きてみようかな、って思えたんだ」


 すると少年の顔がくぐもった。「ああ……。それで大事にしてたのか……。そりゃあ、大事だよな……。本当に悪いことしたな……」


 彼は少年の横顔をうかがった。少年の表情は本当に、心から詫びている顔だった。


「おれはもう気にしてないから、気にするなって」彼はそう少年を励ました。


「ああ……。おまえの言うとおりだな。この話はもうこれで終わりにしよう。すんだことを蒸し返すのは、馬鹿のやることだからな」


 少年は手のひらを頭の上で組み、くるりと回った。


「ところでよ。名前を憶えてないんだったら、新しく付けないといけねーよな。おまえ、おまえって呼ぶのも、アレだし」


 たしかにそうだな、と思う彼。名前とは二人の人間がいて初めて意味をなすのだ。一人だけなら、自分は自分でいいのだから名称などいらない。

 しかし人間が二人いる以上は、お互いを区別する名称が必要だ。


「そうだな。おれにも名前があった方がいいよな」


「もしよければ俺が付けてやるよ」


 自分に名前が付くのか。それは誰もがもっている当たり前のものであるが、自分にはないものだった。


「ああ、お願いするよ」


 少年の顔がパッと輝いた。「そうだなあ~、分かりやすくて、呼びやすい名前がいいよな……」


 それから少年はしばらく、黙ったまま考え込んだ。

 よほど悩んでいるのか、「うん~」だとか、「むん~」だとかを苦しそうに口から漏らしている。名前を決めるだけなのにそこまで、悩むものなのか。

 名前とはそれほど大切なものなのか……。


「そうだな、ニックっていうのはどうだ? 呼びやすくて、分かりやすい。それに愛嬌もあるだろ」


 少年は自信満々にいった。ニック……。それがおれの名前……。彼は何度もニックと言う名を口の中で転がした。まるで体に塗り込むように。口が覚えるように。


「ああ、今日からおれは、ニックだ」


 彼がそういうと、少年は立ち止まり彼に向き直った。

 そして彼を真正面から見つめ、右手を差し出す。


「これからよろしくな、ニック!」


 彼は少年の差し出された手を、興味深げに見つめた。この手はどいう意味なのだろう。

 彼は握手という概念を知らなかった。だから少年が差し出した手の意味も分からない。


 少年は手を出さない彼を不思議に思い、それでいて不安そうな顔をした。「どうした……?」


「あ……いや……。その手はなんなんだろって思って……?」


 彼の言葉に少年は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに説明してやる。


「これはな、握手って言って。友好の証なんだ」


「友好の証」


 彼は少年の言葉を反復し、差し出された手を再び見つめた。

 彼は自分の右手を持ち上げ、彼の握り返した。思えば人間の手を握ったのは、憶えている限りはじめてのことだった。人の手というのは、これほどまでに温かいのか……。


「よろしくな、ニック!」


「よろしく……」そこで彼は言葉を飲み込んだ、少年の名前を知らないのだ。「ええっと?」


 それで彼は名前の必要性を実感した。名前というのは、こういうときに使うものなのだ。


「ああ、そうだった、そうだった。まだ俺の名前を教えてなかったな。わるいわるい」彼に差し出した手で頭を掻きながら、少年は笑った。「俺はチャップって呼ばれてるんだ!」


 チャップという名前を知った途端に、彼には少年が存在する一人の人間なんだ、と実感した。

 名前というのは、一人の人間が存在している証なのか。彼はそう思った。


「よろしく、チャップ!」


「ああ、よろしく、ニック」彼とチャップは固い、固い握手を交わした。


 それから、ニックと名付けられた彼は複雑に入り組んだ道を歩きながら、チャップに仲間のことを色々と教えてもらった。


 もっと沢山の子供たちがいるのかと思っていたが、どうやら仲間は五人だけなのだそうだ。チャップをリーダに、カノン、アノン、ミルロ、セレンという五人で生活している。


 チャップから話を聞くと、ストリートチルドレンの世界でも、派閥というものがあり、仲間を取り合っていると。まるで猫のような縄張り争いが、日々繰り広げられている。


「ニック、見て驚くなよ」とチャップはいたずらっ子のように笑った。


 いったい何を驚くなよ、といっているのだろう。彼には意味が分からなかった。

 チャップがL字の角を曲がったので、彼もあとを追い曲がったとき。幻想的な光景が彼の目に飛び込んだ。


「ここが、俺たちの住みかだ」


 迷路のような裏路地を抜けると、太陽の光が広場のように開けた一帯に照り、エメラルドグリーンに輝く苔が廃墟の建造物を包み込む光景。

 それはまるで香港の九龍城砦(くうろんじょうさい)の一部のようであった。


 世界の時間から置き去りにされたような、ノスタルジックな雰囲気がその一帯を取り巻いていた。


 チャップは広場の真ん中に走り寄り、くるりと振り返った。そしてわんぱくな笑顔を満面に浮かべ、いった。「おかえり、ニック」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ