file03 『モーガンの証言』
呼ぶ。私を呼ぶ。私に何かを言っている。誰かが呼ぶ。誰かが私を呼んでいる。
耳では聞こえない声が私を呼んでいる。
とびらを手で抑えたまま、モーガンは態度で家の中に入るようにうながした。キクマは先にバートンが中に入れ、とばかりにアイコンタクトを取ってくる。
仕方なくバートンが家の中に足を踏み入れると、シェパードが突然唸りだした。即座にバートンは足を止めて、シェパードを見る。
どうして怒る、知らない人物が家の中に入ろうとしているのだから、縄張りを守ろうとしているのだろうか。だったらこれ以上動いたら、本当に噛まれるのではないか。今にでも飛び掛かってきそうな剣幕だ。
こんな犬に噛まれでもしたら、人間などさっき見た、仏さんのようにずたずたにされて、あっさり殺されてしまう、とバートンの頭をよぎった。心臓を高鳴らせながら、バートンはモーガンにいう。
「ぁ、あのー……犬をどうにかしてくれますか?」
と、冷静を装っているが、冷や汗が背中を伝って、シャツが早くもべとべとになっているのだ。後ろを振り向けないが、キクマは一歩引いていつでも逃げられる態勢を取っていることが分かる。
(裏切り者……)
椅子に腰を下していた、モーガンはやれやれ、とばかりにシェパードに向かっていった。
「デモン、警察の人だよ。怒るのをおやめ」
すると、デモンと呼ばれたシェパードは唸るのをやめて、モーガンの横に戻った。バートンにゆらゆら揺れる尻尾を向けて、軽快にモーガンの横に着く。
人間の言葉を完璧に理解しているのだろう、改めて犬の知能が高い事を思い知らされた。
「ありがとうございます」
バートンはやっと金縛りが解け、お礼をいった。キクマも安全を確かめると、バートンに続いて入って来る。モーガンは二人が座る椅子をあごをしゃくって、示した。
バートンは示された椅子におとなしく座って、「遺体の発見状況を教えていただいても、よろしいでしょうか?」とモーガンにいった。
キクマもバートンのとなりに腰を下したところだった。
モーガンはデモンの頭を撫でながら、暗くつぶやく。
「今朝も警察の方に説明しましたよ」
眉間にしわを寄せて、余程しつこく事情聴取されたことがうかがえる。第一発見者は疑われやすい、相当嫌みっぽいことを言われたに違いない。
「もう一度、僕たちにも説明してくれると、助かるのですがぁ」
モーガンは不機嫌そうに、「もしかして、わたしを疑っているんじゃないですよね。今朝もしつこく聞かれて、こっちは参ってるんですよ……」と打ち明ける。
やはり、バートンの予想通り警察のしつこい事情聴取に引っかかっていたようである。第一発見者を疑え、は捜査の鉄則だからだ。
しかし、先入観は良くないと言うのに、第一発見者を疑えとは矛盾しているのではないか。
「いえ……疑っている訳ではありません……私たちは話を聞くことが仕事みたいなものですから……」
バートンはもっともな返答で返した。モーガンは眉間にしわを寄せたまま、神経質そうにデモンの頭を撫で続ける。
デモンはくりっとした目をモーガンに向けて、何かを問いかけるような色を浮かべる。犬もご主人様の苛立ちを感じ取っているのだろう。
「モーガンさん、協力してくれますか?」
キクマはようやく、口を開いてモーガンに問うた。モーガンは犬を撫でるのをやめて、キクマに視線を向ける。
大きなため息を一つ吐いてから、「仕方ありません、話し終わったらすぐ帰ってくださいね」といった。
「もちろんです、少しだけお話をうかがったら、すぐ帰ります」
モーガンは起床時間から語り始める。
「わたしは毎日早起きなんです。今朝も五時に起きて、本を読んだりしていました」
そう言われ、バートンは視線だけを動かし、家の中を見渡した。家の中を見渡すなど失礼なことは百も承知だ、しかし、これも捜査の一部に入るのだから許してもらうしかない。
フローリング敷きの部屋には大きな本棚が置かれ、棚には大小様々な、ジャンルの本が並べられていた。古典文学から、図鑑、近代の娯楽小説など、様々な本だ。
「いつものようにデモンを散歩に連れていく、時間が来たのです」
「こんなに大きな犬だと、モーガンさん一人じゃ散歩も大変でしょ?」
キクマはデモンとモーガンを見比べながら、不躾に訊ねた。
確かに、犬に引きずられながら散歩をしている、モーガンの姿が頭に浮かぶ。
「この子はおとなしい子です。私のペースに合わせてくれて、こかされたことは愚か、引っ張られたことすら一度もありません」
「そうですか、余計な詮索をして申し訳ございませんでした。話を続けてください」
「いつもの散歩道を歩いていたら、デモンが急に引っ張り出したんです……。引っ張ったことなど一度もなかったデモンが初めて私の手から放れました。私は慌てて後を追いかけました――しばらくして、追いついたら、デモンが化け物みたいな動物とにらみ合っていたのです」
化け物、本当に怪物がいるというのか、目撃者がいると言うのに、まだバートンは信用できなかった。
「それは本当ですか……?」
バートンが訊く。
「その化け物が逃げていく姿を私は見ました……。初めは私も信じられなかったけど、本当のことです。この村に伝わる伝承で聞いたことありますが、まさか実在するとは思いませんでした。――私は家に急いで帰って警察に通報したという訳です」
モーガンの説明には感情がこもっていなかった。まるで紙に書かれた、決められた文章を読んでいるかのように感情が読み取れない。バートンはモーガンの顔の表情を眉の動きまで、鮮明に観察していたが、モーガンの証言が嘘か、誠か読み取れなかった。
「その化け物とはどういった、姿をしていましたか?」
バートンは手帳を構えている。黒いなめし革の手帳は光を反射して、黒光りしていた。
「そこまで見ていませんよ、一瞬のことでしたから……」
「だけど、怪物だと思われたのだったら、見たことのない、生物だったということですよね?」
「だから、分からないって言ってるでしょう」
とうとう、モーガンは怒った。声を荒らげて、感情を爆発させるのではなく、静かな怒りだった。静かな怒りの方が、声を荒らげられるよりも恐ろしい時があるものだ。
モーガンは長年の人生経験から、感情のコントロールはお手の物、という感じに見える。
主の怒りを感じ取ってか、デモンはバートンたちをにらみ、小さくうなっている。犬までも、捜査に非協力的だった。
バートンは椅子の背もたれにのけぞって、少しでもデモンから距離を取ろうとする。
「デモン、おやめ……」
モーガンはまぶたを半開きにした状態で、デモンにいった。デモンはしゅん、と床に伏せる。くりくりとした目が、上目遣いでモーガンを見つめている。ご主人の機嫌を損ねたと反省している様子だ。
犬はしゃべれなくても、感情が分かる生き物だ。目は口程に物を言う、とは犬のことを言っているのではないか、とバートンは思う。
「帰ってください……」
モーガンはキクマとバートン両方にいった。
「捜査にご協力ありがとうございました」
「ご迷惑をお掛けしました」
キクマとバートンはお決まりの、セリフを吐きながら立ち上がり、背中にデモンとモーガンの視線を受け、赤い屋根の家を後にした――。