case8 ストリートファミリー
少年は彼をつま先から順グリンに見て回った。ボロボロになり泥で汚れた靴。膝に穴が開いたズボン。雑巾のような色になっている服。ぼさぼさになった髪。誰が見ても明らかだった。
「……ああ、そうだったのか……すまなかったな。紙袋を大事そうに抱えているもんだから。よほど値打ちのあるもんが入ってると思ったんだ……」
といって、少年は彼に紙袋を押し返した。
話せば通じる奴なのかもしれないな、と思った彼。
「ああ、返してくれればいんだ」彼は紙袋を受け取りながらいった。
「ところで、その紙袋には何が入ってるんだ?」
少年は紙袋を指さしていった。彼は紙袋を開き、中身を見せてやる。
「何だよ。ただのパンかよ……。これじゃあ、ひったくり損だよな」
そう言われると、なぜかひったくられた被害者側が、申し訳ない気持ちになってしまう。いや、悪いのはおれじゃなくて、君だろ! と彼は心の中で首をブンブン振りながら考え直す。
「悪かったな、だけどおれには大切な物なんだよ……」
少年は彼を横目に見て、
「まあ、たしかにそうだよな。食べ物は大切だ。うん、宝石や金なんかより、食べ物の方が大切なんだもんな。俺たちも食い物を買うために、盗みを働いてるんだから。おまえの言うことは正しいよ」
と、まるで兄が弟に、説法をたれるようにいった。
「取ったりして悪かったな、許してくれや。悪気があったわけじゃないんだ」そういって少年が踵を返した。「それじゃあ、あばよ」と手を振って去ってゆく。
そのとき、彼は少年を呼び止めた。
「あ、ちょっと、待ってくれ……」
「ん? なんだよ。まだ何かようか?」少年は足を止めて、振り返った。
彼はもじもじしながら困惑気味に、「帰り道がわからないんだ……」と打ち明けた。
「ああ、この街の路地裏は入り組んでるからな。たしかに俺を追いかけて、こんな深いところまで来たんだから、分からなくなって当然か」
少年も参ったなぁ~、というようにこめかみを掻いた。
「よし!」と少年は手を合わせ、「俺が家まで送ってやるよ。この辺りは結構ヤバいからな。――家はどこだ?」と彼に問うた。
しばらく待っても彼が答えないことを、不思議に思った少年は、「どうした……」と心配そうにいった。
「帰る家が分からないんだ……」
少年は眉間にしわを寄せた。まるで聞いちゃまずいことを聞いてしまった、人間の顔だ。
「あぁ……おまえも俺たちと同じなんだな……」
彼には俺たちと同じなんだな、の意味が分からなかった。
いったいどういう意味で、この少年は言葉を発したのだろうか。
「今まで、おまえはどこで寝起きしてたんだ?」
どこで寝起きしてたんだ、と聞かれてもどう答えればいいのだろうか。自分が何て名前の街にいるのかも分からないのに。憶えていない彼にとって、答えようがなかった。
「道端だよ」
とだけ答えておく。
しばらくのあいだ、少年は頭を掻きながら何かを悩んでいる様子だった。ときたま彼の顔をうかがい、そしてまた頭を掻く。それを数分繰り返した。そして、いった。
「おまえの親はどうしたんだ……?」
その質問も答えられるものではない。両親の顔も、名前すら憶えていないのだから。自分がいまこうして、生きているのだから父と母がいたことは間違いないのだが。何も憶えていない。
「分からない……」
「捨てられたのか……?」
彼は首を振る。
「分からないんだ……。両親の顔も名前も憶えていないんだ……。自分のことは何一つ憶えていない……」
するとまた少年は、頭を掻きながら考え込んだ。
以前ほどは、時間がかからずに少年は言葉を発した。
「家も両親の顔も名前も分からない、自分のことも分からない、か……。つまり帰るところがないってことだよな?」
帰るところ、とは家のことだろうか。
だとしたら、帰るところは思い浮かばない。
「ああ……ないんだと思う」
「だったら」少年は親指で背後を指差しながら、「俺たちと一緒にこないか?」と微笑み、いった。
「一緒にこないか……?」彼は少年の言葉を片言の外国人のように反復した。
「ああ、この辺りにいる奴らはな、帰るところのない奴らが寄り集まって生きているんだ。おまえも帰るところがないなら。俺たちと来いよ」
帰るところがない奴ら、その中におれも入っているのだろうか。彼はどう答えていいのか考えあぐねていると、少年が続けていった。
「一人でこの残酷な世界を生きるより、俺たちと一緒に生きた方が楽しいし、助け合えると思うんだ。口が悪い奴が多いいが、みんな良い奴らだぜ」
おれなんかが、仲間に入っていいのだろうか。おれみたいな部外者が突然、仲間に入っていいのだろうか、と彼は考えた。
すると街道で過ごした、数か月の記憶が思い返された。
あのごみでも見るような眼。やり場のない、悔しさ。寂しさ。辛さ。憎しみ。なによりも辛くて、憎かったのは、自分を幽霊のように、この世にいない物のようにして通り過ぎる人間たちだった。
こいつらなら、おれを一人の人間としてみてくれるのかな……。気が付くと彼の口から、言葉が、本音が漏れていた。
「おまえたちの仲間に入っていいのか……?」
少年は今までに見たどんな人間よりも、やさしいさを帯びた笑顔でハッキリいった。
「ああ、当然だろ。――今日から俺たちの家族だ」
家族……。意味としては知っていたが、まさか自分にその言葉が使われようとは、彼は想像したこともなかった。
「家族……。おれをおまえたち家族に入れてくれるのか……?」
「なに馬鹿なこといってんだ? 当然だろ、今日から俺たちは家族だ」
自分の頬を、なにか温かいものが伝うのを彼は気が付いた。
その日、彼は憶えている限りで、はじめて涙を流した。




