case4 消えた少年
どういうことだ。この直角に曲がった道には、隠れる物など何も置かれていない。消えられるわけがない。
きっと、どこかに隠れているのだ。わずかに残った、ひったくりの残り香を探るように、ジョンは神経を済ました。
神経を聴力に集中させる。わずかに反響音が、どこからか聴こえる。野生動物のように研ぎ澄まされた、ジョンの耳でなければ、聴こえなかったであろう、些細な音を、ジョンは確かに聴いた。
「下水道か」
ジョンはそのことに思い至った。
しかし、この道にマンホールは見当たらない。
いったいどこから、下水道に入ったというんだ。ジョンは風景画家のように、かび臭い通路を観察した。
そのとき、わずかに色が違う地面を見つけた。
本当に些細な色の違いだった。よく注意して見ないと、その色は識別できないほどに、わずかな違いだ。
その色彩の違う一点に、手のひらをかざしてみた。空気が振動する感覚が、手を伝った。
やはりそうか、これが下水道に続く道なのだ。これはマンホールではない。レンガだ。少し大きなレンガだ。
試しにわずかに空いたすき間に指を突っ込み、レンガを持ち上げてみる。コンクリートで固められていない、レンガは想像以上にすんなりと持ち上げることができた。
やはりそうだ、冥界へと続くかのような暗黒が鎮座し、鉄梯子は冥府へとどこまでも続いていた。
どうやら、あの子供は自分よりも、このラビリンスに詳しいらしい。
「面白いじゃないか」
久々にジョンの気持ちは昂った。今のジョンの心は獲物を追う猟犬、そのものだった。下水道以外に隠れる場所はない。
間違いなく、ひったくりはこの中にいる。
ジョンは滑るように、鉄梯子を下りた。何十メートルほど、下りただろうか。
地面に足を付けると、底に溜まった、この世の物とは思えない強烈な臭いが鼻を襲った。
臭いはまだ、我慢できる。しかし一番の問題は真っ暗で何も見えないことだ。
用意周到に、あのひったくりは光源を持ち歩いているのだろう。
ジョンは、あのひったくりを甘く見ていた。追い詰められた状況など、幾多も経験しているのだろう。
その度に、巻いてきた。あいつはプロだ。
まだ、遠くにはいっていないはずだ。耳を澄ませ。汚水の流れる音ではなく、足音に意識を集中するのだ。
空洞は思いのほか、音が反響する。どれだけ離れていても、レールと同じで耳を澄ませば、反響音が聴こえてくるものなのだ。
聴こえた。前方に早足で移動する、軽い足音が。壁に手をそえたまま、ジョンは動き出す。
足音が段々と大きくなって来た。近い、あの子供の足音だ。
そのまま、進んで行くと光源が見えた。ひったくりは、巻けたと、安心しきっているた。最後まで油断してはいけない。それが、狩りの鉄則だ。
相手が気を緩めた時点で、もう、捕まえたも同然だ。気配を消して手を伸ばせば届く距離まで、接近した。
ひったくりは、ジョンが真後ろにいることに、気付いていない。
ひったくりは、立ち止まった。気付かれたか、とジョンが思ったとき、ひったくりは壁際にあった鉄梯子に手をかけた。
どうやら下界に戻るらしい。ジョンはひったくりの後ろに憑き、階段を登った。
足音は相手の足と同調させ、極力鳴らさない。
眩しい光がすき間から差し込み、視界は一瞬無になった。
「へッ、ちょろいぜ」
ひったくりは、勝ち誇ったように大きく胸をのけぞらせ倒れ込んだ。まだ子供なのだ。
可哀想に、自分が捕まるとは微塵も思っていない様子だ。いま、ジョンが目の前に現れたら、どんなに驚くことだろうか。
「待ってろよ……。旨いもん買って帰ってやるからな……」
ひったくりが上半身を起こしたとき、ジョンが目の前に立っていた。明るいところでみる、ひったくりの顔はまだ幼かった。
状況が理解できないらしく、驚くことも、叫ぶことも、逃げ出そうともしなかった。
「ど……どう……どうしてここに……?」
小枝のように震える人差し指が、ジョンを指さした。
腰が抜けて動けないのか、尻を引きずりながら後下がりする。
「そのカバンを返してもらいにきた。素直に返せば、何もしない」
ジョンは怯える子犬みたく縮み上がる、少年を見下ろした。
少年はカバンを背中に隠し、返そうとしない。
「もう、二度は言わない。いまおとなしく返せば、見逃してやるから、そのカバンを返すんだ」
潤んだ目が、ジョンを見上げた。それは罠にかかり、自分が殺されることを悟ったウサギの目に似ていた。
しかし、その目には最後まで諦めというものがない。隙あらば一矢報いてやる、というような闘志が宿っていた。
「か……返すもんか! これはオレんだ!」
引き腰だった少年は、掴みかからんばかりに前のめりになり、いった。この、少年が悪いのではない。きっと、明日食べる物にも困り、仕方なく盗みを働いているのだろう。
悪いのは少年ではなく、貧しさなのだ。
こんな世界に生きているよりは、いっそ楽にしてあげた方がこの子のためになるかもしれない。
ジョンは懐に隠し持つ、ナイフの存在を確かめた。
痛みはない、痛いと感じるまでもなく終わる。自分が切られたことにも、気付かないだろう。ジョンが一歩少年に近づいたとき、
「来るな! 弟が待ってるんだ! オレが旨いもん持って帰るのを待ってるんだ!」
と、眼に涙を浮かべていった。
その言葉を聞き、ジョンの動きが止まった。
「待ってる人がいるのか?」
ひったくりの生意気な顔から、少年の顔になっていた。大きな動物に対して、怖いのにあらがう小動物のような眼。
待っている人がいる、ジョンはある女の顔を思い浮かべた。
「おまえには関係ねーだろ!」
ジョンが隙を見せれば、今にでも飛び掛かってきそうな迫力のある声だった。
「待っている人がいるのか」
ジョンは表情を変えることなく、もう一度聞いた。
しかしその声にはさっきまでと違い、不思議な柔らかみを帯びていた。
少年は拍子抜けしたような、表情になり答えるか、黙秘をつくか思案している様子だ。
「ああ……」
少年はポツリと、いった。
「弟がおまえの帰りを待っているのか」
少年はジョンと視線を合わすことなく、こくりとうなずいた。そうか、この少年には帰りを待っている人がいるのか。
ジョンは少年の後ろに回り、背中に隠していたカバンを奪い取った。子供が力で大人にかなうはずもなく、カバンはジョンの手にすんなり納まった。
「何すんだよ! 返せよ!」
この少年は、ジョンが同情してくれると思っていたらしい。
しかし、無情にもジョンは、少年からカバンを奪い取った。
「少年。ここで、待っているんだ。すぐに戻ってくる」
自分が戻ってくるあいだに、逃げ出すのならそれでもいい。追いはしない。
しかし逃げることなく、ジョンを待っているのなら、ジョンが救ってやれる。後ろから少年の悪態をつく声が聞こえた。