表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第二章 過去編 名前のない獣たちは……
42/323

case3 ひったくり

 その男の名はジョンといった。男には名前がない。いや、昔はあったかもしれないが、もう忘れてしまっているのだ。

 

 ジョンと言う名は、警察か、記者か、庶民か、が彼に付けた名前だった。ジョン・ドゥ。それ以来男は、自分のことをジョンと名乗った。


 どこにでもいるありきたりな名前だが、嫌いではない。ありきたりだから嫌いではないのだ。

 煎じ詰めれば、しょせん、名前に好き嫌いなどないのだ。名前など人間を区別するための名詞に過ぎないのだから。二人の人間がいれば、二人を区別する名詞が必要になるだけなのだ。


 少年と別れてから、ジョンはあてもなく街道を歩いていた。仕事の依頼が入るのは夜である。

 それまでジョンには、することがなかった。

 気分転換というではないが、ジョンは街をぶらぶらしていた。


 どこを見ても人、人、人である。一つの街にこれほどまで、人が密集しているのだ。人が二人いれば争いが生まれる。

 これだけの人間が一か所に集中していれば、毎日が争いの祭りになることだろう。


 見るに耐えないものとは、人間の争いであると、ジョンは思っている。


 すでに太陽はかたむき、建物が密集した街道には影ができていた。忘れ去られゆく、ノスタルジックな雰囲気を感じないでもない。

 民家の煙突を日時計代わりに使い、もう、そんな時間か、帰るかと、ジョンは思った。

 

 ジョンが帰宅路を歩いていると、道端に物乞いをしている人たちをよく見かける。富める者と、貧しき者の格差が激しい時代なのだ。

 ときはポツダム宣言が承諾され間もないころ。


 戦争の影響で、家を失った者。家族を失った者。五体満足を失った者、が物を乞い。敗残兵の荒くれ者たちが、街を闊歩していた。

 誰もかれもすさんだ目をして、荒れていた。夜になれば荒くれ者たちの喧嘩が絶えない。


 何も知らない者が、路地裏に入ろうものなら袋叩きにされ、運が悪ければ殺されることもあった。しかしその者たちが悪いのではない、貧しさが悪いのだ。

 ジョンはそのことをよく承知していた。


 そんなことを考え、よたよた歩いていたとき、ジョンの背後で怒鳴り声が聞こえた。


「誰か! そいつを、捕まえろ! ひったくりだ!」


 そう聞こえた刹那、ジョンの横を、猛スピードで抜けていく影が見えた。

 子供だった。泥で汚れたような、帽子を目深にかぶり、ひったくった物と思われるカバンを脇に抱えてラグビー選手のように駆け抜けてゆく。

 人にぶつかり、


「気を付けろ! クソガキが!」


 と、子供は怒鳴られたが、気にも留めずにそのまま、駆け抜けた。


「誰か! 誰か! 頼むあのカバンを取り戻してくれ……! あの中には、大金が入ってるんだ! あのガキを捕まえてくれたら、金をやるから。お願いだ……!」


 そういって、男は膝をついた。

 五十は過ぎているだろうか。紳士服とシルクハットをかぶって、小奇麗にしている。

 その恰好でこんな道を歩いていれば、狙われてしかるべきだ。自業自得ではないだろうか。


 そんなことを思いながら、男を見るとジョンは、その男と眼があってしまった。

 男は藁にも縋る勢いで、ジョンに向け叫んだ。


「おい! そこのあんた……。あのガキを追ってくれ、頼む……」


 男のその眼は、有無を言わさない、という意図が込められているように思う。

 ジョンは仕方なく、言われるがまま男の言うことに、従うことにした。足には自信があった。どれだけ離れていようと、見失わなければ追いつく自信がある。

 ジョンの走りは、人間というより四足歩行の動物に近い。体を前傾に突き出し、両腕を掻くように、人のあいだを縫って進んだ。


 ひったくりは、路地裏を曲がった。どうやら、土地勘があるようだ。常習犯の可能性が高い。

 きっとどの道を曲がれば、人間を巻くことができるかを熟知している子供だ。


 ジョンが角を曲がったとき、ひったくりもL字の角を曲がった。いかなジョンでも、見えなくなった犯人を追うことはできない。

 すかさず、ひったくりが曲がった角を曲がると、またもひったくりは角を曲がる瞬間だった。


 この街の路地裏は、スラム街のように入り組んでいる。沢山の抜け道や横道があり、一度迷い込むと出られないラビリンスのようだ。

 しかしジョンは仕事柄、路地裏には精通していた。


 ここは森の中と同じだ。

 知らない者が樹海を歩けば、遭難するのは必然だが、熟知した者は遭難しないように、ジョンも遭難しない。なぜなら見えない目印があるからだ。

 

 ここも一見何も変わらない家々が立ち並ぶ、裏路地のように見えるが、そこにはちゃんと多種多様な目印がある。

 目印がある限り、道に迷うことはない。それはアリアドネの糸のように。 


 いまひったくりが曲がった、道がどこに通じ、どこで分岐しているのかも知っている。それはまるで、このラビリンスを上空から見ているようなものだ。

 ジョンは、ひったくりが次に現れる、出口に先回りすることに決めた。


 もう、このラビリンスに逃げ込んだ時点で、ジョンからは逃げられない。

 ひったくりが前方から、走ってくるのが見えた。前方に立ち尽くすジョンを見つけると、ひったくりは呆然と立ち止まった。

 口をパクパクさせながら、魚のような表情を見せた。


 ようやく状況を理解したひったくりは、踵を返して横に突き抜けた道に入る。

 どれだけ、足掻こうともう逃げられない。

 ひったくりが入った裏道は、分岐点がなく出口は一か所しかない。ジョンは一足早く出口に先回りした。


 目深にかぶった、帽子の影から子供が動揺する目が覗いた。ひったくりには、ジョンが分身したように見えていることだろう。

 もうひったくりは、文字通り袋の鼠だった。出口が後ろと、前の二か所しかなく逃げることは不可能なのだ。


 ひったくりは懲りずに、また踵を返し、ジョンに背中を向けた。そしてL字に曲がった道に姿を消した。


 ジョンも同じように一か所しかない出口に、先回りする。

 そのときだった、ジョンは己が目を疑った。

 そこにいるはずの、ひったくりの姿がないのだ。


 どういうことだ、まるで神隠しあったかのように、ひったくりの姿が影も形もなく消えていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ