case3 ひったくり
その男の名はジョンといった。男には名前がない。いや、昔はあったかもしれないが、もう忘れてしまっているのだ。
ジョンと言う名は、警察か、記者か、庶民か、が彼に付けた名前だった。ジョン・ドゥ。それ以来男は、自分のことをジョンと名乗った。
どこにでもいるありきたりな名前だが、嫌いではない。ありきたりだから嫌いではないのだ。
煎じ詰めれば、しょせん、名前に好き嫌いなどないのだ。名前など人間を区別するための名詞に過ぎないのだから。二人の人間がいれば、二人を区別する名詞が必要になるだけなのだ。
少年と別れてから、ジョンはあてもなく街道を歩いていた。仕事の依頼が入るのは夜である。
それまでジョンには、することがなかった。
気分転換というではないが、ジョンは街をぶらぶらしていた。
どこを見ても人、人、人である。一つの街にこれほどまで、人が密集しているのだ。人が二人いれば争いが生まれる。
これだけの人間が一か所に集中していれば、毎日が争いの祭りになることだろう。
見るに耐えないものとは、人間の争いであると、ジョンは思っている。
すでに太陽はかたむき、建物が密集した街道には影ができていた。忘れ去られゆく、ノスタルジックな雰囲気を感じないでもない。
民家の煙突を日時計代わりに使い、もう、そんな時間か、帰るかと、ジョンは思った。
ジョンが帰宅路を歩いていると、道端に物乞いをしている人たちをよく見かける。富める者と、貧しき者の格差が激しい時代なのだ。
ときはポツダム宣言が承諾され間もないころ。
戦争の影響で、家を失った者。家族を失った者。五体満足を失った者、が物を乞い。敗残兵の荒くれ者たちが、街を闊歩していた。
誰もかれもすさんだ目をして、荒れていた。夜になれば荒くれ者たちの喧嘩が絶えない。
何も知らない者が、路地裏に入ろうものなら袋叩きにされ、運が悪ければ殺されることもあった。しかしその者たちが悪いのではない、貧しさが悪いのだ。
ジョンはそのことをよく承知していた。
そんなことを考え、よたよた歩いていたとき、ジョンの背後で怒鳴り声が聞こえた。
「誰か! そいつを、捕まえろ! ひったくりだ!」
そう聞こえた刹那、ジョンの横を、猛スピードで抜けていく影が見えた。
子供だった。泥で汚れたような、帽子を目深にかぶり、ひったくった物と思われるカバンを脇に抱えてラグビー選手のように駆け抜けてゆく。
人にぶつかり、
「気を付けろ! クソガキが!」
と、子供は怒鳴られたが、気にも留めずにそのまま、駆け抜けた。
「誰か! 誰か! 頼むあのカバンを取り戻してくれ……! あの中には、大金が入ってるんだ! あのガキを捕まえてくれたら、金をやるから。お願いだ……!」
そういって、男は膝をついた。
五十は過ぎているだろうか。紳士服とシルクハットをかぶって、小奇麗にしている。
その恰好でこんな道を歩いていれば、狙われてしかるべきだ。自業自得ではないだろうか。
そんなことを思いながら、男を見るとジョンは、その男と眼があってしまった。
男は藁にも縋る勢いで、ジョンに向け叫んだ。
「おい! そこのあんた……。あのガキを追ってくれ、頼む……」
男のその眼は、有無を言わさない、という意図が込められているように思う。
ジョンは仕方なく、言われるがまま男の言うことに、従うことにした。足には自信があった。どれだけ離れていようと、見失わなければ追いつく自信がある。
ジョンの走りは、人間というより四足歩行の動物に近い。体を前傾に突き出し、両腕を掻くように、人のあいだを縫って進んだ。
ひったくりは、路地裏を曲がった。どうやら、土地勘があるようだ。常習犯の可能性が高い。
きっとどの道を曲がれば、人間を巻くことができるかを熟知している子供だ。
ジョンが角を曲がったとき、ひったくりもL字の角を曲がった。いかなジョンでも、見えなくなった犯人を追うことはできない。
すかさず、ひったくりが曲がった角を曲がると、またもひったくりは角を曲がる瞬間だった。
この街の路地裏は、スラム街のように入り組んでいる。沢山の抜け道や横道があり、一度迷い込むと出られないラビリンスのようだ。
しかしジョンは仕事柄、路地裏には精通していた。
ここは森の中と同じだ。
知らない者が樹海を歩けば、遭難するのは必然だが、熟知した者は遭難しないように、ジョンも遭難しない。なぜなら見えない目印があるからだ。
ここも一見何も変わらない家々が立ち並ぶ、裏路地のように見えるが、そこにはちゃんと多種多様な目印がある。
目印がある限り、道に迷うことはない。それはアリアドネの糸のように。
いまひったくりが曲がった、道がどこに通じ、どこで分岐しているのかも知っている。それはまるで、このラビリンスを上空から見ているようなものだ。
ジョンは、ひったくりが次に現れる、出口に先回りすることに決めた。
もう、このラビリンスに逃げ込んだ時点で、ジョンからは逃げられない。
ひったくりが前方から、走ってくるのが見えた。前方に立ち尽くすジョンを見つけると、ひったくりは呆然と立ち止まった。
口をパクパクさせながら、魚のような表情を見せた。
ようやく状況を理解したひったくりは、踵を返して横に突き抜けた道に入る。
どれだけ、足掻こうともう逃げられない。
ひったくりが入った裏道は、分岐点がなく出口は一か所しかない。ジョンは一足早く出口に先回りした。
目深にかぶった、帽子の影から子供が動揺する目が覗いた。ひったくりには、ジョンが分身したように見えていることだろう。
もうひったくりは、文字通り袋の鼠だった。出口が後ろと、前の二か所しかなく逃げることは不可能なのだ。
ひったくりは懲りずに、また踵を返し、ジョンに背中を向けた。そしてL字に曲がった道に姿を消した。
ジョンも同じように一か所しかない出口に、先回りする。
そのときだった、ジョンは己が目を疑った。
そこにいるはずの、ひったくりの姿がないのだ。
どういうことだ、まるで神隠しあったかのように、ひったくりの姿が影も形もなく消えていたのだ。