case2 パンの恩恵
あの男はいったい、何だったんだ……?
どうしておれに、こんな物をくれたんだ。憶えている記憶の中で、人にやさしくされた、記憶は彼にはなかった。
彼にとっての人間とは、ただ右往左往に目の前を立ち去ってゆく無機物の塊だったからだ。
世の中には、やさしい人間もいるんだな、そのことを知った彼は今まで、無機物に見えていた、人間という生物の見方が少し。
ほんの少しだが、変わった気がした。
人間も捨てたものじゃないな、と。その証拠に、男がくれたパンはこれほどまでに、温かい。
パンを見ていると、今まで痛みを止めていた腹は思い出したかのように、再び激しい痛みを彼に与えた。
腹の虫が大きくうなった。
唾液が肉を見せられた犬のように、溢れ出る。生きる希望を取り戻した少年に腹の痛みという、生の存在が襲った。
無意識のうちに腕が動き、気が付けば彼はパンをむさぼっていた。まだ熱をおびたパンは、外が黄金色の薄い皮におおわれ、歯を突き立てるだけでサクサクと心地よい音が、あごを伝い頭蓋骨を刺激した。
はじめの一個目は丸吞み近い、食べ方で飲み込んだ。
少し落ち着きがでたため、こんどはしっかりと味わおうと決める。
外はサクサク、中はミルクをふくんだようにしっとりとしていた。三日月の形をしたパンは甘く香ばしい。
食べ物を食べられるというのは、これほどまでに素晴らしい。
パンの甘さが彼のすさんだ心を、角砂糖のように溶かしてゆく。
あっという間に、三つ食べていた。恐る々々、彼は紙袋を覗き込んだ。まだ、六個残っている。
いっぺんに食べてしまうのはもったいない、残りは取っておくことにした。
食べ物を食べたことにより、冷え切っていた彼の体は内側からポカポカと温まっていた。
体から力がみなぎってくる。
これで、まだ生きられるんだ。彼はハッキリとした頭で実感できた。今まで、おれは、なんて馬鹿なことを考えていたのだろう。
こわばった体をほぐすため、彼が立ち上がろうとしたそのとき、黒い影が彼の前に現れた。
ゆっくりと顔を上げた。太陽が逆光し、黒い人影が目の前に立っていた。眼を細め、よく見ると、さっき消えた男が、またしても目の前に立っていた。
魂が欠落したような目で、男は彼を見つめていた。その瞳には、光が宿っておらず、機械のような冷たい視線が、ただ彼を見ているだけだ。
「少年……君は悪いことを、したことがあるか?」
段落のない平坦でいて、冷たい声で男は彼に問うた。
このまま見つめていると、男の目に吸い込まれてしまうのではないか、彼は、そんな恐怖を覚えた。漆黒のその瞳は何もかも飲み込む、ブラックホールのように彼を見つめる。
このまま男の目を見つめちゃ駄目だ! 戦士の勘がそう告げた。彼は視線を地面に落とす。
レンガの間から蟻が、這い出てきて彼がこぼしたパンの屑を担いでいた。
こんな状況で彼は思った。ああ、こうして命は回っているのか、と。自分が落とした、パンの屑で、蟻たちの命が繋がっているのか、と。彼は考えたのだ。再び彼は顔を上げた。
そして、こんどは真っすぐに男の目を見返した。もうその目に吸い込まれることはない。
「ああ、悪いことをしない人間はいねぇーよ。おれも、悪いことなんざぁ沢山したよ……」
どうしてだろう。自分の口から自然にその言葉が漏れていた。おれは、記憶をなくす前、とてつもなく悪いことをしていた気がする。
それも想像を超える、とてつもなく悪いことを……。
彼のその言葉を聞き、男の冷たく刃物のように鋭い視線は歪んだ。それは、迷い人のような、動揺のような歪みだった。
まるで己が心に巣くう獣と、対峙するかのように。
しばらくして、男はいった。
「少年……救ってやれなくてすまない……」
その声は今までの切るように鋭い声とは違い、慈愛に満ちた人間らしい声だった。彼は安堵した。やっぱり、この兄ちゃんは人間なんだ、と。
「気にするなって。兄ちゃんは、おれにパンを恵んでくれたじゃねぇか。おれはそれで救われたよ」
その言葉は彼の心からの、言葉だった。
この世には、悪い人間ばかりではなくこの男みたいな、やさしい人間もいるのだと、この人が教えてくれたのだ。
「そうか……」
と男は視線を地面に落とし、自分に言い聞かせるようにいった。
「生きろよ。苦しくても、生きていれば、良いことがある」
男は笑った。
氷のように固まった男の表情は、まるで千年間溶けたことがない、絶対零度のツンドラに、雷鳴のような大地をつんざく音を鳴らし春の訪れを知らせるかのようだった。
なんてやさしい笑顔なんだろう。
きっとイエスもこのような笑顔で笑ったのだろう。彼は男につられるかたちで、笑顔をこぼしていた。
ああ、おれは笑っているんだ。彼の憶えている限りで、初めて自分が笑っていることに気が付いた。
「ああ! ありがとな、兄ちゃん。生きれるだけ、生きてみるよ」
彼がそういうと、男は彼の頭を乱暴になでた。その見た目からは想像できない、固い手のひらだった。
それでいて、温かい人間の手のひらだった。
彼はされるがままに、頭をかたむける。それは猫が飼い主の脛に、頭をこすりつける姿に似ていた。