case1 不思議な男
想像以上に、長くなる予定なので、まだ完結まで書きあげていませんが、投稿していきます。
残酷描写、性描写、差別用語、卑猥な例えや言葉などの、R15以上の内容が含まれている個所があります。そのことを、ご了承のうえお読みください。
目の前を何食わぬ顔で、人々が通り過ぎてゆく。右へ、左へ、前へ、後ろへ、人々は誰一人として、同じ動きをするものがいなかった。
彼は通り過ぎてゆく、人々を観察していた。
彼は幽霊だった。姿の見えない、幽霊だった。
その証拠に、誰も彼の存在には気付いていなかった。
ひもじかった、腹が空いていた。正確には、さっきまでは空いていた、という方が正しいだろう。つまり、今は空いていない。
おかしな話だが、空腹を通り越したら痛みも消えるのだ。
この世のすべてが憎い。
綺麗な服を着て、威嚇するように歩いている男。
発情期の猫のようにきつい臭いを、まき散らしている女。
おまえたちはいくつもの犠牲の下に、生きられていることを知ろうともしない。そんな、人間すべてが憎い。
たまに彼と眼を合わせる者がいた。その誰もが多種多様な表情をするのを、彼は観察する。
汚物でも見るような眼で、彼をねめつける者。
捨てられた子猫のように、彼を憐れむ者。
見えているのに、見てみぬふりをする者。
本当に多種多様だった。自分はどうしてこのような、路上生活者になっているのだろう、と彼は考えた。自分で自分が分からない。
どうしてだろう。どうして……おれはここにいるんだ? 彼には記憶がなかった。数か月前からの記憶がない。
記憶を失うまでの自分が、どんな生活を送っていたのかも思い出せない。
記憶を掘り返そうとすると、頭がガンガン締め付けられる強い痛みを感じるのだ。頭の中に何かが住み着き、記憶を侵食しているようだ。
これ以上、思い出そうとすると頭が割れ、血が噴火のように噴き出すような気がする。
何かとんでもないものが、封印されている気がするのだ。
開けてはならない、パンドラの壺を開けてしまえば自分がどうなるか分からない。
もし、パンドラの壺を開けてしまえば、自分がどうしようもない化け物になってしまうのではないか、という根拠のない妄想のようなものが、彼の心を蹂躙した。
駄目だ、そう思い、もう思い出そうとする行為を辞めよう。
このまま、何も食べなければ死ねるのだろうか?
まぁ、このまま生きながらえて辛い思いを長引かせるよりも、いま自分の人生に幕を下ろす方が、自分のためになる気がする、と彼は思う。
不思議と死ぬことは怖くない。
痛いのは怖い。しかし死ぬのは怖くない。不思議な話だ。
まるで、死ぬことは、怖くないと訓練された兵士のように、怖くない。
死ぬことに恐怖は感じないはずなのに、死ぬのは嫌だ。どうしてだろう? このまま死んでしまうのが悔しいのだ。
こんなごみ溜めのごみ屑のような、死に方なんて嫌だ。
おれは生きてやる! おれは生きてやる! こんな道端で死んで蠅にたかられ、ごみと一緒に捨てられるのだけは嫌だ。
だけどこのまま、何も食べなければ永遠に休めるのだ。それは甘美で魅惑的な、天使の囀りのようだ。
楽になりたい……。
彼は首を振った。何を考えている、おれは生きるんだ。心の中で、死という天使と、生という悪魔が戦っていた。
天使が勝てば、おれは死ぬ。悪魔が勝てば、おれは生きる。生死をかけた戦いだった。
この世は悪魔が勝っちゃいけないんだ……。
悪魔が天使と戦い、勝てるわけがないんだ……。
天使は圧倒的な力を駆使し、悪魔を打ちのめさなければいけないんだ。そして予想していた通り、天使が勝った。
そうか天使様がそういうなら、仕方ないな……。彼は天使に憑りつかれたような感覚を覚えた。ここで野垂れ死ぬのが、おれの運命なのか。
彼は己が運命を受け入れた。このまま何も食わずに、一日。そう、あと一日この辛さに耐えるだけで、楽になれるんだ。
そう悟った彼の目の前に天使が舞い降た。
長い髪をなびかせ、天使の微笑みを浮かべている。その純白の翼で彼をやさしく包み込んだ。
このまま身をゆだねれば、おれを天界に連れて行ってくれるのか……。
そのとき、天使が姿を消した。
どこへ行く! おれを置いて行かないでくれ……。彼は溺れた人間がもがくように、天使を探した。
「少年、どうして君は絶望しきった目で、人間を見ているんだ」
天使と入れ替わるように、その男は目の前に立って彼を見下ろしていた。冷たい目をした、まだ若い男だった。
なんだ……この男は……。
彼は不思議とこの男に恐怖を覚えた。この男はそこいらを歩いている人間とは別の世界にいる……。そんな雰囲気だった。
彼の鍛え抜かれた戦士のような、動物的直観のような何かがそう告げていた。
「こんな目、したくてしてんじゃねぇーよ」
固まった口から、ようやく言葉がでた。小動物が自分を大きく見せようとするような、滑稽な声に聞こえた。
「そうか」
透き通るようだが重い重厚感のある声で、男は短く答えた。
早く逃げろと、本能が警鐘を鳴らしている。
しかし空腹のため走ることどころか、立つこともできない。駄目だ……どっちにしろ、おれはここで野垂れ死にするんじゃないか。
瞳孔が攪乱し、視野が定まらないほどに彼は動揺していた。しかし彼の、予想とは裏腹に男はその短い言葉だけを残して、立ち去ったのだ。
「いったい……何だったんだ……」
彼は脱力して、コンクリートの壁に背中を預けた。
何だったんだ、あいつは。あの内側に悲しみを秘めた、冷たい目を前にもどこかで、見たことがある気がする。
どこでだ……? 思い出そうとするとまた、頭が締め付けられるような強い痛みが襲って来た。
駄目だ! 考えるのを辞めよう。それに何も考えられないほど、体と脳が衰弱していた。
消えてしまった天使が、また迎えに来ているれる気がしたのは、気のせいだったようだ。
天使の代わりに現れたのは、さっきおかしなことを聞いて去っていった男だった。
今度こそ殺されるのか。野垂れ死によりは、こいつに殺された方がましかもしれない、と彼は考え始めていた。
「少年」
その男は、そう言いながら何か紙袋のようなものを、彼に渡した。彼は少し身構えたが、紙袋の口からのぞく黄金色の物を見て困惑した。
それがパンだと彼にでも分かった。この男はいったい、なにを考えている……?
そうかパンの中に毒を入れているんだ。
彼の戦士の直感がそう告げた。
「心配するな、毒なんか入っちゃいない」
男は彼の頭の中を読んだかのように、彼が考えていたことを的中させた。
男は押し付けるように、紙袋を突き出した。
彼は警戒しながらゆっくりと、紙袋に手をかける。まだ温かい、パンが紙袋を通して彼の冷え切った手を温めた。
彼が紙袋を受け取ると、男は何も言わずその場を立ち去った。