file36 『人と獣は交われない』
私は少年のもとに、再び戻ってきた。少年は動くこともなく、同じ場所に座り込んでいる。ここに戻ってくるあいだ中、私は考えていた。
あの少年はなにも、『悪』を行っていないではないのか。もし、行っていても、したくてしているわけではないのではないか。
「少年……君は悪いことを、したことがあるか?」
少年は私の顔を見て、うつむき、再び、私の顔を見た。
「ああ、悪いことをしない人間はいねえよ。おれも、悪いことなんざぁ沢山したよ……」
悪いことを犯した人間を、私は殺してきた。
しかし、私は正しかったのだろうか。中には少年のような人間がいたのではないか。
できない、私には少年を楽にしてやることができない。少年のことを想うなら、いますぐ逝かせてやるべきだ。しかし、私にはできない。
少年は悪くないからだ。悪いのは、少年ではなく環境だからだ。こんな気を起こすとは、まったく、何の気まぐれなのだろう。今日の私はおかしい。
「少年……救ってやれなくてすまない……」
「気にするなって。兄ちゃんは、おれにパンを恵んでくれたじゃねぇか。おれはそれで救われたよ」
少年が理解した、『救い』と私が言った、『救い』は別物だったかもしれない。
しかし、少年は救われたといった。
この少年は救われたのだ。私が救わなくても、いまの少年は救われている。
「そうか……生きろよ。苦しくても、生きていれば、良いことがある」
そう、生きていれば良いこともある。
「ああ! ありがとな兄ちゃん。生きれるだけ生きてみるよ」
少年の笑顔を初めてみた、日だった。
私は家の扉を開けた。女が私にいう。
「お帰りなさい!」
私は泣き笑いのような顔を作り言った。
「ただいま、キクナ――」
バートンは耳を疑った。
「私とトローキンさんは昔からの付き合いでしたから。私もあのときは、驚きましたよ。仲間が惨い姿で発見されて」
キプスのその発言に、キクマは心底おかしそうな態度をとった。
「よくいえたもんだな」
キクマの言葉にキプスは微笑んだ。
「たしかに、私が言うのはおかしいですね。つい最近まで私も、あの事件の犯人がトローキンさんだとは知らなかったんです。以前、トローキンさんと酒を飲みかわす機会があって、そのとき、酔ったトローキンさんがポロりと、もらしたんですよ。
『ドネリ君すまない。本当にすまない』と。どうして謝るんだ、と私が訊きますと、トローキンさんは、『ドネリ君を殺したのはおれなんだ』と告白したんです」
それが本当だとしたら、以前、トローキンはどんな気持ちで、自分たちに語ってくれたのだろうか。
「獲物が見つからず、いら立っていたトローキンさんは樹の間で、動く動物を見つけたそうです。トローキンさんはすかさず、発砲しました。普通、猟師はあんな間違いしないのですが、まだあのときのトローキンさんは若かったし、苛立ちで判断力を削がれていたのでしょ」
そこまで一息にいって、「その動いたものとは、ドネリ君だったんですよ」とキクマとバートンを交互に見て、キプスは笑った。
獲物と人間を間違って撃った……トローキンはそのことを、今まで隠していた、ということか。
「自分が撃ってしまったのが、ドネリ君であったことを知り、トローキンさんはパニックになりました。そのときのトローキンさんの頭に、ある怪物の伝説が浮かんだそうです。
『怪物のせいにしよう』と思ったそうです。トローキンさんは持っていたナイフで、死体をズタズタに切り裂きました。その死体を私たちが発見した、というわけです」
キクマは顔を歪めた。
「それと、お前がトローキンを殺した、動機がどう関係してるってんだ」
「トローキンさんは私に言ったんです。『殺してくれ』、と。あの事件以来、トローキンさんはずっと、罪の意識に悩み続けていました。何度も自殺を考えたことがあるそうです。だけど、死にきれなかった」
そこで、いったんキプスは黙り、「もう、トローキンさんは十分罪を償った。だから、私が楽にしてあげたんです。人間が唯一、救済されるのは『死』、だけですからね」と恍惚に答えた。
「ど、どうして……あんな森の奥まで連れて行って、殺す必要があったんですか……?」
バートンは話に割り込んだ。とても、言葉を出せる状況じゃなかったが、聞かずにはいられない質問だったのだ。
「トローキンさんがいったんです。『あの森で、ドネリ君を殺してしまった。自分もあの森で、同じ殺し方で殺して欲しい』と。私にいったんです。つまり、目には目を歯には歯を、自分が犯した、罪と同じ、殺し方で、殺してほしいと。
それで私はあることを思いつきました。トローキンさんを殺したあと、獣の毛皮を着せて犯人に仕立て上げよう、と。私は獣の皮を集めていましたから、人間が一人入ることができる、着ぐるみを作るのは容易でした」
「なんてことを……」
バートンは絶句した。
他に言葉が出せなかった。
「あとは、トローキンさんは自分の足で、森の奥まで入って、私が猟銃で撃ちました。猟銃で撃たれるのが、彼の望みだったんです。そこからは刑事さんたちが知っている通りです。
私は森を出て、警察の方たちの道案内をした。そして、私はあの場所まで誘導して、私がさも発見したふうを装って、樹にもたれ掛けさせていた、トローキンさんを再び撃たんです」
そこで、キプスはため息をつき、「上手くだませたと思ったんですが、あんな場所に目撃者がいたとは思ってもいませんでしたね」心底、不思議そうな顔をした。
キプスの説明で、すべてはつながった。トローキンは昔、誤って殺してしまった、親友のことで思い悩んでいた。その罪の意識を酔いで、キプスにすべて話してしまったんだ。
そして、罪の償いとして、自分もあの森で同じ殺され方を選んだ。それを、キプスが利用した。
どうして、そんな惨いことができるんだ、バートンはキプスを同じ人間とは思えなかった。こいつこそ、獣の皮を被った悪魔じゃないか。
「最後だ。ビーンはどうして殺したんだ」
「あの人はこの村でも有名な、根っからなの悪ですよ。人からお金を巻き上げ、暴力で相手を支配する。昔レイプも犯した、と自慢そうに言いました。少し痛い目にあわしたら、すぐに白状しましたよ」
「だからやったてぇーのか」
キプスはキクマの目を真っすぐに見て、うなずいた。
キプスのその瞳には、奥深く広がる暗黒があった。
いったい、どんな育ち方をすれば、このような怪物が生まれるのか。昔騒がれていた、という怪物の伝説より、バートンはキプスの方が恐ろしく思えた。
「ふん、胸糞わりい」といい、キクマは腕時計に視線を落とした。
「もう時間だ」とキプスに言い放つ。
キプスは暴れることもなく、大きくうなずいた。
暴れないのが一層、バートンの恐怖を駆り立てた。
本当に暴れないのだろうか。隙をうかがっているだけではないのか。
いま、この瞬間に背中を見せれば、襲い掛かってくるのではないか。バートンの方が格段に若いし、背も高いのに、戦って勝てる気がみじんもしなかった。
キプスがその気になれば一瞬で、あの被害者のような骸と化すんじゃないかと、恐ろしかった。
「ええ、行きましょうか」
そう言い、キプスは立ち上がった。本当に、抵抗一つしないのか。
もう、一生帰って来られない場所に行くというのに、まるで近所に散歩に行くかのような気やすさを、その声からは感じ取れる。
キクマとバートンがキプスの両脇に立ち、二人の車まで誘導する。キプスと接近するのが、恐ろしくて仕方がない。キクマはどう思っているのだろう。
キプスを数ミリも恐れている気配が感じられない。改めて、キクマ・ランドーズという男を尊敬した。
外に出ると、いままでの緊迫した空間とは打って変わって、村の家々の明かりがつき、事件が解決した安心感に浸っていた。
村人たちはまだ、真犯人がキプスだったことを知らないのだ。
最後にキプスは家の中に視線をやり小さく、「私は解放されたのだろうか。本当にこれで解放されたのだろうか」とつぶやいた。
その声はキクマにもバートンにも聞こえなかった。なぜなら、キプスの心の声だったからだ。キプスは村の者に知られることもなく、静かに村から去ったのだ。
*
後日、キプスの家に捜索が入った。キプスが凶器に使ったという、獣のしゃれこうべを調べると、大量のルミノール反応が見つかり、牙の間から肉片が発見された。
取調官がいままでのキプスから犯行と、二十年前の事件との関係性。その他にも、キプスが犯したであろう、犯罪の数々を取り調べたが、キプスは黙秘を貫いていた。
死刑は決定しているものの、今までにキプスが犯した犯罪の照合が終わるまで、まだまだ延期になるという。犯罪を犯せば、犯すほど。人を殺せば、殺すほど、死刑が延長されるのはおかしな話だ。
このままでは、キプスは罰を受けることなく、獄中で老死でもするだろう。それまで、牢獄の中には、世間を震撼させた、連続殺人犯が幽閉されているのだった――。
ミノタウロスは成長するに従い、手が付けられなくなっていった。半獣半人の獣は誰も抑えることができず、自堕落な生活にふける。困り果てた、パシパエは名工ダイダロスに命じ、脱獄不可能の迷宮、ラビリンスを造らせた。
そこに、獣を閉じ込めた。
そして、獣の機嫌を取るため、九年に一度、七人の少年、少女をラビリンスに放った。
ミノタウロスは、今も生贄を探し、ラビリンスを彷徨い歩いている――。
第一部 完




