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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第一章 事件編 人と獣は交われない  
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file35 『最後の追撃 キクマの質問』

 あの少年にパンを恵んだことで、少年は苦しむ時間が長引いた。

 私がやったことは人助けではない、苦しむ時間を長引かせただけの、中途半端で浅はかな行為だった。

 最後まで助けられないのなら、初めから手を出してはいけない。

 それは相手を、余計に苦しめるだけになるからだ。相手を苦しめるのは、私のポリシーではない。

 それを思うと、少年の前を通り過ぎていった人間たちは、とても正しいことをしていたのだ。

 私がしたことは愚かなことだった。

 私があの少年を助けてあげられるとしたら、それは逝かせてあげることだけだ。

 パンなど渡さずに初めから、そうしてあげていれば良かった。

 私はそのプロだ。苦しい、という感覚を感じる間など与えず、逝ける。いまからでも、間に合うだろう。あの少年に必要なのは救済だ。そうだ。そうなのだ。私はプロなのだから。

 キクマはキプスの目を胡散臭そうに見つめながら、「あんたのしたことがどうして、この世界のためになるんだ」と、問い返す。


 キプスは落胆したように鼻から大きく息を吐いていった。


「一人の人間がいなくなることで、どれだけの命が救われると思いますか。一人の人間がいなくなるだけで、どれだけ世界が変わると思いますか」


「一人の人間がいなくなるだけで、世界が変わるわけないだろうが」


 棚の上に置かれている、小動物のしゃれこうべがキラリと光った。

 気にしないように、目をそらせば余計に視覚に入ってくる。至る所に小動物の骨格標本が置かれているので、眼に入らない方がおかしい。


「ええ、確かに警部さんの言う通り、一人くらいの人間が死んだだけでは、何も変わりません。私がいくら足掻こうが、権力も持たない、ちっぽけな一人の人間ですから、どうすることもできません」


 キプスは首を垂れて、そのまま黙り込んだ。自分の手首を見るように、だ。いや、手首ではなく、手首をつなぐ手錠を見ているのかもしれない。


「いくつか質問したいことがある」


 キプスは顔を上げて、「ええ、なんなりと」と微笑んだ。


「二十年前、お前は俺に会っているか?」


 キプスは少し思案気味に押し黙り、「いえ、会った記憶はありませんね」と微笑みを崩さず答えた。


 キプスはそういったが、キクマが問うぐらいだ。二十年以上前にあったという事件のとき、二人は出会っている可能性がある。


「二つ目。どうして、殺すのにあそまで内臓を破損させる残虐な殺し方をした」


「犯行を誤魔化すためです」


 二人が想像していた解答をキプスは返したので、驚きはしなかったが、獣による犯行に見せかけるために死体をズタズタにした、という回答は、どうも違う気がする。


「検視結果ではイヌ科の歯形がでてたが、どうやってあんな歯形を付けた」


 キプスは手錠に繋がれた両手を持ち上げて、ある物を指さした。


「骨格標本……」


 キプスが指さした物は、巨大なイヌ科の骨格標本だった。綺麗に肉が削がれ、骨の隅々まで見渡せる。


 眼球が納まっていた眼窩(がんか)は、光も届かない漆黒がブラックホールのように口を開けている。部屋の中は明るいのに、骨格標本の周辺だけ異質なオーラで覆われていた。


「あれの歯を使ったんです」


 綺麗にギザギザ模様を描いた、歯は他の骨よりも鋭く輝き、まるで今も生命が宿っているかのように見える、という表現は変だが生命感があった。


 キプスがあの、歯で人間の内臓をズタズタに引き裂く姿を想像すると、背筋に冷たい悪寒が這うのが分かった。


「あれで、人間の体を引き裂けるものなのか」


「最初に、ナイフで喉を裂くんです。その後にナイフの痕が分からなくなるまで、あの狼の頭部を両手で持ち、顎を上下させれば、面白いように切れますよ。やすりで鋭くしてありますからね。ナイフのように切れます」


 それを聞いて納得がいった。あの異様に光る歯はやすりか何かで、磨かない限りあそこまで輝かないだろう。キプスは恍惚とした表情で、獣のしゃれこうべを見つめる。


「三つ目。――お前はキクナ、という女を知っているか」


 どのような質問をするかと思えば、事件に関係のないことなのでバートンは驚いた。女性の名前……?


 そのような名前の被害者はいない。では、いったい誰だろうか、バートンはいまだかつて、そんな名前の女性の話を、キクマから聞いたことがなかった。


 それに、キクマが女性の名を口にすることすら、バートンが知る限り初めてだ。


 キプスをうかがうと、彼はしばらく押し黙って何かを考えるような、おかしな間が開いた。


「――キクナ? 私が殺した中に、そんな名前の女性がいたかもしれませんが」


 それを聞いて、キクマはピクリと眉根を動かし、気になった様子だったが、次の質問をぶつけた。


「四つ目。いったい、ラッセルや、トローキン、ビーンは何をしたってんだ」


「ラッセルさんはイスカちゃんとキスカさんに暴力を振っていたんです。私はね昔から、相手を従わすために暴力をふるう人間(けもの)が許せないんです」


「だから、やったってえぇーのか」


「ええ」


「トローキンは」


「トローキンさんは、例外です――」


 キプスはしばらく、うつむいて黙った。

 そして、顔をあげた。


「たしか、二十数年ほど前です。私は昔から、自分の食べるものは、自分で獲るように心がけています。食べられるもの達に敬意を表してね。

 私がある、三人の仲間。私を入れれば、四人で、猟に出たときの話です。獲物が獲れずに、私も仲間たちも、いら立ち、みんなは狩りを諦めて、帰ろうと言い出しました」


 その話をバートンはどこかで聞いたことがある話だな、と思った。

 どこで、聞いたのだったか?


「しかし、還る直前。一人の仲間が見つからなくなってしまい、私を含めた、三人で必死に捜したのです。けれど、その日は見つからず、仕方なく仲間を置いて、帰ることにしたんです。

 その、仲間も森になれているプロですから、一日や二日は森の中でも、生き残れると考えたからです。翌日沢山の仲間を連れて、森中を捜索しました。それはもう、しらみつぶしに。そして、予想もしない形で見つかりました」


 バートンはその話を思い出した。どこかで聞いたことがある気がしていた、その話は、トローキンが話してくれた話ではないか。


「ズタズタに引き裂かれた、状態で見つかったんです。誰もが村に古くから伝わる、怪物の仕業だと考えました」


「お前がやったのか」


 キクマは口を挟んだ。


「いえ、それをやったのは私じゃありません」


 そこで、いったん、キプスは考えるふうを装う。


「それをやったのはあなた達もよく知っている、ある人物なんですよ」


 とキプスはおかしそうにいった。

 自分たちも知っている……? 

 いったい、だれのことを指しているのか。

 バートンはキクマに視線を向ける。しかし、キクマも分かっていない様子だった。


「ある人物ってのは、誰なんだ」


 キプスは不気味に微笑んだ。

 陰の深い顔に、一層深く陰が刻まれた。


「トローキンさんですよ」

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