file34 『その男、ジョン・ドゥ』
人通りの多い、賑やかな道を歩いていると、道端で少年を見つけた。
着ている物はつぎはぎだらけで、痩せこけた子供だった。
すべてに絶望しきった目で、道行く人間を見つめている。
哀れを誘う乞食だった。道行く人間は誰一人として、少年を見ようとしなかった。
いや、そうじゃないのかも知れない。見ようとしないのではなく、見えないのかも知れない。少年は幽霊の可能性すらあった。
このような子供は、私が以前いた、孤児院というところに入れるのではないのか。
なら、どうして、こんなやせ細り、絶望の目で人間を睨んでいるのだろうか。
いったい、孤児院は何をしているのか。私は気が付くと、少年に近づき問うていた。
「少年、どうして君は絶望しきった目で、人間を見ているんだ」
少年は私を見上げ、睨んだ。子供とは思えない濁った目だった。
「こんな目、したくてしてんじゃねぇーよ」
これがこの少年の精いっぱい、怖くした声だったのだろう。しかし、その声には怖い、という感じはなく、可愛ささへ含んでいる。
したくてしてんじゃねぇ、か。
たしかに、その通りだ。誰もしたくて、今の暮らしを選んだわけではないだろう。
少年にしては、上手いことをいうものだと私は感心した。
「そうか」
そう少年に言い残し、私はその場を立ち去った。
私がしばらく進んだ先に、パン屋があった。私は何の気まぐれか、その店でパンを買っていた。紙袋いっぱいに、買っていた。
すると、また何の気まぐれか、私は今通って来た道を引き返し、少年の前に再び立っているではないか。
「少年」
さっきと同じ場所でふさぎ込んでいた少年に、何の気まぐれか、私はパンを渡していた。
どうせ、こんなパンを与えたところで、少年の暮らしが変わる訳ではない。
それどころか、苦しむ時間を長引かすだけだ。このまま、何も食べなければこの少年は数日後には死ぬだろう。私には分かるのだ。
森の中で同じ体験をした私には分かるのだ。もうすぐ死ぬ人間の寿命を延ばすのは、相手を苦しめるだけで、それは私のポリシーに反する。罪の重さにもよるが、私はできる限り、相手を苦しませないことを心がけているから。
それが、何の気まぐれか死に逝く少年にパンを渡していた。少年は不思議そうな顔で、紙袋を見つめている。パンが入っていることは分かっているはずだ。
なのに、受け取らないということは、毒が入っていないか警戒しているのかもしれない。中にはそんな人間がいる。毒が入った食べ物を、乞食に与え、それを食べて苦しむ乞食を見て楽しむ、そんな人間が。
そんな相手を苦しめるのは、罪の重さにもよるが、私のポリシーではない。
「心配するな、毒なんか入っちゃいない」
私がそういうと、少年は警戒しながらも、私の手から紙袋を受け取った。
パンの入った紙袋を覗き込み、微笑んでいるようだ。なんだ、子供らしい顔も作れるんじゃないか。
一時、このパンで死をしのげたとしても、また数日後には同じ苦しみを味わうであろう少年。私は相手を苦しめるのは、罪の重さにもよるが、好きではない。
それが何の気まぐれか、少年の苦しむ時間を伸ばしてしまった。
私は少年の少年らしい顔を見たかったからなのかもしれない。
しかし、結果的に苦しむのは変わりない。本当に何の気まぐれか。
「やっぱり、あの傷はデモンが噛んでつけた傷ですね」
キプスは左手を、右前腕に一度這わせて、いう。
「ええ、あの犬に噛まれてできた傷です。モーガンさんが嘘の証言をしてくれたのはそう言った理由があったんですか。おかげで、助かりましたよ」
「では、今までの犯行はすべて、あなたがした……犯行と認めるんですね……?」
キプスはにやりと笑い、「さあ、バートンさんはどう思われますか。私がこの連続殺人事件の犯人だと思いますか」とまるでバートンを試すような視線と質問を向けた。
バートンはキプスを気持ち悪いほど怖いと思った。
バートンはここまで、人間を恐れたことはない。
手がふるえ、膝が震えている。
どうして、自分はこんなに怯えているんだ。分からない。けれど、このキプスという人物に睨まれると、蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなってしまう。
自分が怯えていることを必死で気付かれないように、バートンは自分の両手をにぎり、膝の上で抑えた。これが恐怖というものなのか。
「ええ、あなたが犯人です……証拠だってあるんですから。ラッセルさんとトローキンさんを殺害したのはあなたです!」
キプスは目をつむり、「ええ」と、微笑んだ
バートンはとびらの外に、一度視線を向けて、「出頭してください」と微笑みを浮かべたまま、こちらを見ているキプスに言いつけた。
すると、キプスは今までの微笑みをパッと消し、呆れたような顔をした。
「バートンさん、もし、私が暴れたらどうするつもりですか。あなた一人でこんなところに来て。初めから警部さんと二人で来れば良かったじゃないですか。まずはとびらの外にいる、警部さんを呼んでから、そんなことは言うもんですよ」
気付いていたのか。ならなぜ、もっと早く言わなかった。
一体この人物は何を考えているのか。バートンはとびらとキプスを見比べながら、とびらの外にいるキクマを呼んだ。
キプスは口角を上げたまま、とびらが開くのを見届ける。しばらくして、キクマが入ってきた。厳しい目つきで、キプスを睨んでいる。
「お前があのときの犯人、ジョン・ドゥだったか。やっと、顔を拝めたってことだな。恋人のような気持ちで、今までおまえに会える日を待ち遠しにしてたよ」
キクマは入って来るなり、キプスに言い放った。
バートンが今まで見たことがないほどの厳しい目つきをしている。ジョン・ドゥ? という名前をバートンは初めて聞いた。
二十年以上前の事件でこの二人は、出会っていたのだ。そして、二十年にもわたる因縁がある。
「署に来てもらうおうか。署で今まで、お前が犯して来た罪を洗いざらい話してもらう」
キプスは終始、落ち付き払った、ペースを乱さず、「まあ、私はおとなしく連行されるつもりです。その前に少しだけ、警部さんともお話しがしたいんですがね」と顔を怒りに引きつらせている、キクマに切り出す。
「話なら署に行ってから、聞く」
キクマはキプスの話を取り合わない。
「少しだけです。私は本当に暴れたり、逃げようなどとは考えていません。少しだけ話をしたら、おとなしく連行されます。だから、少しだけ警部さんとお話がしたい」
と、無抵抗を現すように、手のひらを頭上でひらひらしてみせた。
「――そこに座ってください」
キプスは手のひらでバートンが座っているソファーを示し、清々しいまでの微笑みを浮かべてキクマにいう。おかしい、本当におかしい。
もうすぐ捕まるという人間が、ここまで落ち着けるものなのだろうか。バートンは今まで色々な犯人を見てきたが、ここまで自分がもうすぐ、捕まる、というときにこうも落ち払った人間を見たことがない。
だから、バートンはキプスを恐れているのだ。
キクマは渋々、話を聞く条件としてキプスに手錠をかける提案を持ち掛けた。キプスはおとなしく、承諾し両手を差し出す。手錠のロックがかかる、乾いた金属音がカチカチとなった。
本当に暴れる気はないようだ。ならなぜ、今まで逃げていたんだ。
自分の犯行をトローキンにかぶせるような真似をしたのか、分からない。
何から、何まで、キプスが考えていることが分からない。自分の犯行を本当に反省していて、逃げるのに疲れたからだろうか。
連続殺人鬼が? そんな反省する人間ならこんな事件は起こさない。考えれば、考えるほどキプスの心理は分からないし、分かりたくもない。なにからなにまで、疑問が絶えなかった。
キクマは足と腕を組んで、ソファーに深くもたれかかった。正にふんぞり返ったポーズ。キクマが座るのを見届けると、キプスは話はじめる。
「バートンさんにもお話したのですが、警部は世界で初めて動物愛護法を作った人物を知っていますか」
キクマは瞬きすらせず、黙っていた。
「世界で初めて動物保護法を作った人物はヒトラーです」
「それがどうした」
バートンはキクマとキプスを交互に見た。テーブルを挟んだ二人の空間にはピリピリとした、重い空気が渦を巻いているように見える。二人の会話にバートンが加わる余地などなかった。
「いえ、どうもしません。ヒトラーはユダヤ人を大量虐殺しました。そのことで世界中から非難されている。違いますか」
キクマは黙ったまま何も答えない。ただ、キプスの目を真正面から見つめているだけだ。
「ヒトラーが殺戮したのは人間だから非難されているのであって、もし殺戮したのが人間ではなかったら、ヒトラーは非難されていたでしょうか」
と、キプスは笑って見せた。手錠の鎖が鳴る乾いた冷たい音が、静かな室内に響き渡る。その音はまるで、楽器のようにキプスの言葉と同調して、異様な雰囲気をかもし出させた。
「私がしたことは悪いことだと思いますか。私がしていることがこの世界の地球の人のためになっているとしても。悪いことだと思いますか」
キプスはキクマに問うた。キクマはソファーの手すりに肘をつけ、手の甲であごを支え何も言わなかった。




