last file 人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である
二人はお互いの顔を見て、またまた同時に言った。
おまえもパンか? と。
「そうだけど……チャップもパンなのか?」
「ああ……おまえもか?」
お互いを指さしながら目を白黒させる、チャップとバートン。
「何でパンを買ったんだよ?」
バートンが訊ねると、「俺たちが出会ったとき、おまえがみんなにくれた、あのパンに似たパンをパン屋で買って来たんだ。もう一度みんなで食べようと思って……」
バートンは顔に出さずに驚いた。
自分もチャップと同じ考えだったからだ……。
「僕もチャップと同じ考えだよ……」
バートンは言ってキッチンの戸棚にしまってあった、紙袋を慌てて持って来た。
「ほら」
紙袋を見せると、チャップも同じ店の紙袋を見せた。
まったく、同じだ……。
「考えることは同じだったってことか」
チャップはおかしそうに微笑んで、「まあ、これもいい想い出だよな。――みんなで食べようぜ」と紙袋に手を突っ込んで、パンを取り出した。
それはクロワッサンだった。
きつね色にキラキラと光沢を放つ見た目は食欲をそそり、見るだけでよだれが出そうだ。
「お皿を用意するわ」
言って、セレナはキッチンから大きな皿を持ってきて、テーブルの中央により分けて置いた。チャップはその皿に紙袋をひっくり返して、すべて出す。クロワッサンの生地の破片が、粉雪のように空を舞った。
計十個。丁度人数分だ。
バートンも十個だった。
これも考えは同じ。
二人分を合わせると、ニ十個。
「やったー。クロワッサンだっ!」
一番喜んでいたのは子供たち二人だった。甘いクロワッサンは子供たちの大好物でもある。目を輝かせて、セレナが作った料理はもう眼中にない様子。
我先にとケイリーが皿に手を伸ばすと、次々と大人たちも手を出した。
クロワッサンが皆に一個ずつ行きわたる。
「昔、バートンが持っていたパンをみんなで分け合ったことがある。言うなれば杯を交わすみたいなもんだ。このパンを食べるということは、家族になるということ」
言ってチャップはクロワッサンを掲げた。
「改めて、誓ってくれるか。俺たちの繋がりを」
皆は同時にクロワッサンを掲げた。
子供たちもわからないなりに、ミロルも、当時いなかったチトとローリーも掲げた。
皆は同時にクロワッサンを食べた。香ばしく、飴でコーティングされているかのように、外の皮はカリカリで中はしっとりとバターが練り込まれ香ばしい。
昔食べた味と同じだ。
バートンは懐かしさに何故だかわからないが涙が出た。
「パパ何で泣いているの?」
ケイリーはクロワッサンのかすを口の端に付けて、首をかしげた。
「懐かしかったからだよ。大人になるとね。ふとした瞬間に想い出す懐かしさに、涙が出ることがあるんだよ」
「変なの~」
きっと、子供たちもわかるときが来るだろう。
これから先、色々な経験を積む中で。
「それじゃあ。オレもこの際渡すぜ」
カノンはズボンのポケットに手を突っ込んで、紙切れを取り出した。
「俺が出演する、舞台のチケットだ」
ミロルの手に無理やり握らせるようにしてカノンは言った。
「みんなの分もあるから、観に来てくれよ」
ポケットから更に八枚のチケットを出して、皆の手に次々と握らせた。皆は苦笑交じりで受け取って、「ありがとう……」と一応お礼を言った。
「これは、何の物語なんだ?」
バートンはチケットの両面を見たが、舞台のタイトルは記載されていなかった。
「ペリクリーズっていう、シェイクスピアの作品だ。解体した家族の再生が描かれているんだぜ。今のオレ達にピッタリのテーマじゃないか」
カノンは憎たらしいほど、満面の笑みを浮かべて答えた。
もう一度チケットに視線を戻して、バートンも微笑む。
「確かに、ピッタリだな」
堰を切ったかのようにプレゼントの出し合いは続き、チトとローリーは万年筆と日記を、アノンは革靴をプレゼントした。
アノンは昔の経験もあってか靴職人をしており、それなりに評判もいい。何度か大会でも優勝したことがあると言っていた。靴業界ではそれなりに有名な存在らしい。
「こんな良くしてもらって、本当にいいのか?」
ミロルは受け取ったプレゼントを両手で持ち、見下ろした。
「ああ、これは俺たちからの感謝の証だ。セレナはこの料理を、俺たちはプレゼントを、な」
丁度そのときだった。
ふと付けっぱなしにされていたブラウン管テレビを見ると、アポロ十一号が月面に着陸した映像が衛星中継で、映し出されていた。
白い宇宙服を着た、宇宙飛行士が無重力の中を飛び跳ねるように歩いている。誰が、誰なのかはさっぱりわからない。宇宙飛行士の靴跡が、月面に轍を刻んだ。
きっと、全世界が歓喜に湧いている瞬間だっただろうが、バートンたちにすれば二の次のことだった。
「なあ」
テレビを横目に見ていたチャップは、バートンに小声でつぶやいた。
「何だよ?」
「学び続けていれば、人間は宇宙に行ける日が来ただろ」
ポカンとバートンは呆けた顔をしていたが、すぐに想い出した。ああ、確か昔チャップはそのようなことを言っていた。
想い出すとおかしくなってくる。
昔のどうでもよい会話は実現されたのだ。
「本当だな。人間は宇宙に、月に行ける日が来たな」
人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である。
他人にしたら、何事もない一日だったが、バートンたちにとってはとても大きな飛躍となる一日であった――。
その後、ミロルはチャップの経営する孤児院で共に暮らすことになり、皆はそれぞれの生活に戻った。
季節はゆっくり、なだらかに過ぎ、ローリーは女の子を産んだ。
それから二年後に、すれ違いを続けていたチャップとチトも、やっと結ばれることになる。自分たち家族はより強い絆で結ばれた。
事件の方はというと、すべての元凶でもあるジンバは二年後、刑期を終え釈放された。
ジンバはキプスに脅され、犯罪にやむなく協力したと表上は通っている。だから、罪はとても軽かった。すべての元凶は、この人だ、と訴える気もない。
ジャック・ザ・リッパー再来事件の犯人である、キプス・リトスがすべての罪を背負い、刑を受けた。刑執行の日までの数年間は、とても充実した日々になったのだろう。
モーガンであり、アリシアであり、母親である女が月に数回、面会に赴き、数十年越しの親子の時間を過ごすことができたのだから。
キクマも妹の埋葬された場所をついに突き止め、毎年墓参りを欠かさない。後にチトたちから聞きわかったことだが、キクマの妹のキクナと、二人は二十年前に知り合っていたという。
二人がマリリア教会にやってくることになった経緯が、キクナによるものだったそうだ。自分たちとキクナの繋がりをすべて聞き、他人事ではなかったのだと知った。
UB細胞や獣の血漿による、再生医療の件はまだ何も進展はないようだ。
人類が宇宙に行けた日が来たように、これからの研究で、後遺症の少ない医療方法が確立されるかもしれないが、それはまだ先の話。
ジャック・ザ・リッパー再来事件を巡る、いや、それよりもっと昔、ジェボーダンの獣事件から端を発した一連の事件はこれで終わる。
一つの事件は終わりを迎えたが、刑事の仕事は終わらない。
生きている限り、人間がいる限り、事件は尽きない。
終わり、また始まりを繰り返して、この世は循環するのだから。
だが、この物語はこれで終わりを迎える。
「おい、行くぞ」
マフィアのような怒号を響かせ、キクマは特別捜査係の部署を出た。
「はい」
バートンはティーカップに淹れられたコーヒーを一息に飲み干して、キクマの後を追う。
時に苦しく、時に楽しい時間を進みながら、二人の物語はこれからも続いて行くのだ――。
END




