file105 1969年7月24日
なんて素晴らしい日なのだろう。
なんて素晴らしい人生なのだろう。
幼いころは、自身の人生に絶望しかなかった。
親に愛されず、孤児となり、路地裏でこのまま死ぬのだと思っていた。
だが、神様は自分を見放さなかった。
神様はチャップとミロルに巡り合わせてくれ、カノンとアノンにも巡り合わせてくれた。そして、今の旦那とも――。
それまでは神様など信じたことはなかったが、信じるようになった。
食事のときは、見よう見まねで祈りもするようになったし、何かあると神に祈るようになった。この世は捨てたものではない、と。
ミロルが寝たきりでも、セレナは信じていた。ミロルは必ず、目を覚ます、と。記憶は失ってしまったが、ミロルは目を覚ました。
記憶などこれからたくさん作っていける。
ミロルは自分たちの中に生きている。
これから、ゆっくりミロルに昔の話をしよう。
バートンが迎えに行っている間に、最後の準備に取り掛からなければ。昨日の内に料理の下準備は終えていた。
ローストビーフを作ったり、具沢山の野菜を煮詰めスープを作ったり、カレンから教えてもらった、チーズケーキを作ったり、と昨日は忙しかった。
それに比べれば、今日はゆったりとしている。
ただ待つだけ。
チャップは今さっき買い物に行ってくる、と出かけてしまったし、カノンとアノンは今か今かと、リビングを行ったり来たり、子供たちはローリーと遊んでいる。
賑やかだけど鬱陶しいとかうるさいとは思わない。
とても微笑ましく、嬉しい気持ちになれる。
「それじゃあ、あたしたちも支度しましょうか」
ソファーに座ってブラウン管テレビを観ていたチトにセレナは言った。どのチャンネルもアポロ11号のニュースで持ちきりだった。着陸時の映像を衛星中継で全世界に放送されるそうだ。
今日は全世界の人がテレビにかぶりついていることだろう。
「ええ、あたしは何すればいい?」
「ケーキを焼いて、料理をテーブルに運びましょ。盛大に出迎えるの」
「驚いて倒れちゃうんじゃない?」
チトは片方だけ口角を上げて苦笑した。
こういうサプライズは嫌いではない。
「それじゃあ、はじめましょうか」
*
ミロルの担当医だった医者は、病室の窓辺を見てたたずんでいた。
バートンはとびらから顔だけを覗かせて、様子をうかがっていると、「こんにちは。お久しぶりです」と言って医師は振り向いた。
病室にミロルの姿はなく、医師しかいない。
とりあえず病室の中に入り、バートンは言った。
「今までお世話になりました」
深く深く、バートンは頭を下げた。ここ二十年間ずっと、ミロルを見てくれていた医師だった。バートンたちと同じくらい、ミロルが目覚めたことを喜んでいるのは、きっとこの医師だと思う。
この医師ともこれで、顔を合わせることもなくなるだろう。
それはそれで少々、寂しいなと思う。
「バートンさん」
腹にドシッとのしかかるような低重厚の声。
「はい……?」
「ミロル君は、なぜ目覚めることができたのでしょうか? 脳の半分が……機能していなかったというのに……? どんな名医でも治療することなど不可能だった……。いったい、あなた達は彼に何をしたのでしょうか……?」
医師からしたら不思議で不思議で、仕方がなくて夜も眠れないことだろう。
事情を知っている自分からしても、不思議でしょうがないのだから。
常識では考えられない、奇跡。
それはまるで磔刑に処されたはずのイエス・キリストが三日後に復活した奇跡に例えても遜色はない。
「バートンさん……あなたは知っているのでしょ? いったい、ミロル君に何をしたのですか? お願いします。教えてください。あのような再生医療技術があるのなら、もっと多くの人を救えるのです」
バートンは目をそらして口を結んだ。
確かに救うことができるだろう。
だが、今はまだ試作段階。
後のことはサエモンたちが決めること――。
「ごめんなさい。無理なお願いをしてしまい……」
医師は肩を落とし、頭を下げた。
「将来、人間が戦争など馬鹿らしい、と気付くときが来るのなら人類の医療技術は格段に上がると思います。いつになるのかわかりませんが、それまで待ってもらえますか。そのときには、すべてをお話しします」
そんな日が来ることはたぶん来ないだろう。
だが百パーセントないとは言えない。
バートンの言っていることは理解されないと思う。
だが医師は目を細め、微笑み「わかりました。そのときまで待ちましょう」と答えた。
「ミロル君なら、一階の待合室でお待ちですよ」
バートンはもう一度深く頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
*
一階の受付のとなりにある、待合室でミロルは待っていた。
荷物は殆どない。
少しの着替えだけ。
「お待たせ」
バートンを見てミロルは、ソファーから立ち上がった。
自分はどのような存在に見えているのだろうか?
昔のように距離を縮めるのは時間がかかるだろうが、これからゆっくりと、縮めて行けばいい。
車の中で殆ど、というより一言たりとも会話を交わさなかった。
いつものことだが二人だけの空間で何も会話を交わさないと、これほど空気が重いのか……。
「みんなは?」
ミロルはやっと口を開いた。
声変わりしているのに、昔と同じようで違和感がない。
きっと子供のときから、大人びていた声をしていたのだろうと今になって思う。
「みんな、家でおまえの帰りを待ってるよ」
「俺の帰りを?」
「ああ、ずっと待ってったんだぞ。ずっとな」
ミロルはそうなのか、と口の中を転がすような小さな声で言って、再び押し黙った。重い沈黙は家に到着するまで続いた。家を出発してから往復四時間ほど経過し、午後四時になっていた。
「着いたぞ、みんな待ちくたびれているだろうな」
言って、車を降りた。
ミロルはバートン邸の敷地を隅から順番に見回し、正面の家を見上げた。
玄関を顎で示して、「ただいま」と帰宅を知らせたにもかかわらず、シーん……と「おかえり」の返事も返ってこなかった。
いったいどういうことだ?
普通なら玄関まで出迎えがあってもいいはずなのに……?
バートンは不審に思いながら、ミロルと共に廊下を進んでリビングのとびらを開けたときだった――。
パンパンと大きな音と共に目の前を、紙吹雪やリボンが舞った。
「退院おめでとう!」
皆は示し合わせたように、言葉を重ね合わせて祝いの言葉をミロルに送ったのだった――。




