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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file96 同等の立場でなければ、話せないこと

 キプスの面会に行ってから一週間が過ぎようとしていた。

 近頃色々なことが立て続けに起き大変だったが、やっとひと段落がついてきたようで、バートンたちは平穏なときを取り戻していた。


 ミロルの見舞いに行ったり、モーガンの見舞いに行ったり、子供たちと遊んだりと、なかなかに忙しかったが苦ではない。


 目覚めないミロルに語りかける方が、よっぽど辛かったからだ。

 ミロルは何も想い出せないでいるが、記憶などこれからでも作れる。嘆くことでもない。これから、素晴らしい記憶を皆で作っていけばいいだけの話だ。


 二十年眠り続けていたせいで筋力も低下してリハビリが必要で、もうしばらく先の話になるが、ミロルは退院できることになった。


 目覚めて一か月ほど経ったころ、ミロルは口数は少ないがしゃべるようになっていた。語彙や発音方法は憶えているらしく、しっかりとした口調で、ミロルはしゃべった。


 この調子でいけば、一年、いや、半年くらいで退院できるかもしれない。


 病院の医師も奇跡だと言っていた。

 どのような治療法を試したのかは、サエモンたちは黙秘を貫いていた。

 医師たちも、触れてはならないことだと理解しており、深くは訊かなかったので、自然消滅という形で語られなくなった。


 獣の血漿をつかった再生医療は、これから研究されていくのだろうか?

 それとも、封印されるのかはまだわからない。


 獣の血漿も無限ではない、有限だ。

 再生医療に使える血漿は、かつて人間だった獣に限られる。

 そして、ミロルとモーガンに使った血漿は銀狼のものだったが、もう何世代かしたら、この治療法もできなくなるだろう。


 もし、悪用する者が再びあらわれたら、不幸な子供たちが生まれるかもしれないのだ。そう考えるなら、やはり消滅した方がいいのかもしれないと今はそう思う。


 ミロルが目覚めてから、一週間後リハビリをはじめた。 

 リハビリをはじめたときは、手すりを持ってでも、五歩歩くのがやっとだったが、今では手すりを持たなくても少しの距離なら歩けるようになっている。


 時間と本人の努力で、これはどうにでもなることだった。

 二十年前から、止まっていた家族の時間は今、皆と共に動き出そうとしていた――。


  *


 緊張の面持ちで一人の老人がとびら越しに病室の前に立っていた。

 ドアノブに手をかけようとして、すぐに戻す。

 かれこれ、三分以上同じ動作を繰り返している。


 老人はロートレック刑務所の矯正長だった。

 当時看守だった矯正長は、囚人だったアリシアに恋心を抱いていたのだろうと思う。


 もう年老いたとはいえ、惚れた人に逢うのは緊張するのだ。

 矯正長にはここに連れてくる道すがら、話していた。


 アリシアは記憶を失っていること。

 そして、捜していた子供は現在刑務所に入っており、本人は自身の正体を明かされることを望んでいない。母親の様子を知れただけで満足だ、と。


 願いをしっかりと聞き届けられたかはわからないが、キプスはキクマに妹の墓を教えたそうだ。


 例え、子供だとわかってもらえなくても、キプスは満足したのなら、自分たちのやったことは報われたのなら、無駄足ではなかった。


 病室のとびらの前で葛藤すること五分ほどで、やっと矯正長は心を固めた。ドアノブを握ると、ゆっくりととびらを開いた。


 敷居に一歩足を踏み入れて、ピタリと石になったかのように固まる矯正長。モーガン、いやアリシアはベッドの上に起き上がり、窓の外を眺めていた。アリシアは窓に反射した、敷居に突っ立っている男に気が付き、振り向いた。


「あ……その……」


 矯正長はかぶっていた中折れハットを脱ぎ、胸の前に添えた。


「あ……ご気分はいかがでしょうか……?」


 機械のようにぎこちなく訊ねて、矯正長はアリシアの下に歩み寄った。

 歩き方がぎこちない。


「いいですよ」


 微笑んで、「あなたは……?」とアリシアは首をかしげた。

 記憶を失っていなくても、わからないと思う。


「私は……」


 矯正長は一瞬返す言葉に詰まり、誤魔化しに微笑んだ。


「昔、あなたに助けてもらった者です」


「私が……ですか?」


 信じられなさそうに、アリシアは自分を指さした。


「はい。とても、とても心の支えになってくれたのですよ」


 矯正長の言葉が嘘でないと察すると、アリシアは困惑した顔で、「そうでしたか。ですが……ごめんなさい。何も憶えていないのです……」と細い眉を歪めた。


「ええ、存じております。気にしないでください。私が一方的に感謝の念を抱いているだけですから。けれど、当時の私の支えになったのです」


「おかしな感じですね。自分は知らないのに、人の役に立てているなんて」


 矯正長はベッドサイドに立て掛けられていたパイプ椅子を組み立てて、座った。その光景をとびらの外から眺めていたバートンは、これ以上聞き耳を立てるのは野暮だろう、と思い、静かにとびらを閉めた。


 以前は囚人と看守、そして今は同等の立場で話しができる。

 記憶を失ったからこそ、何の負い目もなく、気遣いもなく、ときが過ぎたからこそ、話せることもある。


 その日、矯正長とアリシアは他愛無い話に花を咲かせた――。

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