file95 人に焦がれた獣のソナタ……
面会時間を十分ほど残し、バートンはモーガンと共に面会室を出た。
残ったキクマは再びキプスと一対一で向かい合っている。
「彼女は本当にすべてを忘れているのですか?」
「ああ」
「記憶は戻るのですか?」
「わからねえ。ふとした拍子に戻るかもしれねえし、戻らないかもしれねえ」
「そうですか。もし、戻ったとしても、私のことは言わないでください。もし知ってしまうと、オイディプスの母のようになってしまうかもしれない。いえ、絶対にそうなる」
「いいのか。あのばあさんはおまえをずっと捜していたんだぞ。何年も何十年もおまえを捜していたんだぞ。本当に知らせなくていいのか? それに、ばあさんに名前を聞きたかったんじゃねえのか?」
自分は何を言っているんだ? とキクマは自分がわからなくなった。
いなくなった者を捜す辛さはキクマも知っているから、おかしな気を起こしたのかもしれない。
「もう、聞けました」
この男はモーガンとどのような会話を交わしていただろうか?
キクマは考える。
「あれがおまえの名前か?」
ジョンは小さくうなずいた。
「わかりませんが、彼女が自分の子供につけたかった名前なのだから、私の名前でもあると思うのです」
「おまえはそれでいいのか?」
「警部さんからしたら、理解できないでしょうけれどね」
キクマにはわからなかった。
はじめから殺人鬼の思考など理解できないが、理解したいとも思わないが、興味を惹かれないでもなかった。
「満足したか?」
「彼女が自分の人生を歩んでいることが知れただけで、満足ですよ。手の届くところにずっといたのに、まったく気づかないとは滑稽な話ですね」
「青い鳥だな」
キクマはぼそりとつぶやいた。
「青い鳥?」
「妹が幼いころ家族で観に行った舞台のタイトルだよ。二人の兄妹が幸福の象徴と言われている青い鳥を夢の中で探しに行くって物語だ。どこを探しても見つからなかった青い鳥は結局、自分たちの家の鳥かごの中にいたっていうしょうもねえオチだったがな」
「遠くのものはよく見えるのに、近くのものは盲点になる。同じですね」
キクマとキプスは二人そろって笑った。
「もう一度話したいなら、また連れて来てやるぞ」
「いえもう、満足ですよ」
会いたいのか、もういいのか、その表情からは読み取れない。
二人を合わせると、もっと劇的な何かが起きるものだとキクマは期待していたのかもしれない。だが、映画のクライマックスのような感動も劇的な何かもなかった。
ただただ静かな会話。
あったのはそれだけ。
ご都合的にモーガンの記憶が戻るでもなく、ただただ交わされたおかしな親子の会話。
「彼女のことを嫌っていたはずなのに、どうしてこれほど逢えたことが嬉しいと思えるのか、自分でも不思議です」
キプスは目を伏せて、手錠を眺めた。
「おまえは、ばあさんのことを嫌っていたんじゃねえよ。それは反抗期ってやつだ。おまえは普通の奴よりも、反抗期が早かっただけなんだろう。俺もガキのころは、両親のことを意味なく毛嫌いしていたときがある。
だが、それを過ぎると両親のありがたみがわかるようになるんだよ。そして、わかったころには親はいねえんだ」
そう、両親のありがたみがわかったころには、親はない。
父親に親孝行をしてやりたいと思ったころには、あっさりと心筋梗塞で死んでしまった。そんなものだ。
「反抗期ですか。警部さんは面白いこと言いますね。確かにそうだったのかもしれませんね」
看守は腕時計を確認しはじめた。
あと、五分ほどだろうか?
「警部さん」
「何だよ」
キプスは手錠に伏していた目を上げて言った――。
それは、キクマがずっと知りたいと思っていたこと――。
それを知るために、殺人鬼の言いなりにもなった――。
「本当なのか……? 本当にその場所に……キクナはいるのか……? 何で……そんな場所に……わざわざ埋めたんだよ……?」
「彼女が望んだからです」
「キクナが望んだってえのか? 自分を殺そうとした男に、頼んだってえのか? 何でおまえなんかに頼む必要があるんだよッ」
どうしてまた……。
そんなことをしたんだ……?
キクマにはわからない。
「彼女は死に逝く間際に、私に言ったのです。『そこにわたしを埋めて』と。私は殺してしまったせめてもの償いとして、彼女の願いを叶えた。深い意味はありません」
「もし、嘘だったら承知しねえからなッ」
キクマは顔を格子ギリギリに突き出して、ドスの効いた声で言った。
キプスは涼しい声で言い返す。
「嘘ではありません。信じてもらおうとは思いませんが、騙されたと思って一度向かってください。小高い丘の上に、一本のイチョウの樹があります。そのイチョウの樹の下に彼女を埋葬しました」
キプスはキクマの知らない妹の素顔を知っていた。
この殺人鬼は本当に……キクナのことを愛していたのか……?
なら、どうして……殺した……。
聞きたいことが山のようにあるのに、思考もまとまらないし、時間もない……。
「最後にこれだけ聞かせろ」
ジョンは何も言わずに、キクマが話しはじめるのを待った。
「おまえとキクナはどういう関係だったんだ?」
「世間一般でいう恋人、という関係だと言えなくもありません。だが、違うと言えば違った。自分がそう思い込んでいただけかもしれません。それに恋人らしいことをしてあげたこともありません。すべてを隠したいびつな関係でした」
「おまえがそう思い込んでいただけだッ。キクナがおまえみたいな人殺しに惚れるわけがないッ」
ジョンは瞳孔の奥底に悲しみを潜ませ、「ええ、私が思い込んでいただけです」と言い直した。
そのとき、看守が口を挟んだ。
「そろそろ、時間です」
キクマはキッと看守を睨むように見据え、「もう少しだけ待ってくれ。あと少しだけ、待ってくれないか」と言うと「わかりました。あと三分だけですよ」と看守は渋々了承した。
この殺人鬼がキクナに一方的な想いを抱いていた?
いや、それでは説明できないことが多々ある。
自分でも知らない妹のことをこの殺人鬼は知り過ぎている。
だとしたら……本当にキクナはこの殺人鬼に惚れたというのか……?
「惚れてたんだったら、何でキクナを殺したんだよッ」
口を閉じるジョン――。
前回と同じだ……。
この男はどれだけ問いただそうと、真実を打ち明けない。
「クソがッ!」
「時間です」
もうこれ以上は待てない、という顔で看守は立ち上がった。
「ああ、わかった」
キクマも立ち上がり、立ち去り際に言い捨てた。
「あばよ。もうおまえに逢うこともねえな」
「最期に私の願いを聞き届けてくれて、ありがとうございました」
「おまえのためじゃねえ。自分のためだ」
ジョンは微笑んだ。
キクマはもう二度と会えないであろう、ジョンを横目に見て、エレベーターに消えた。エレベーターのとびらが閉まるまで、ジョンはキクマの背中を見送った――。




