file94 勇気とは何ですか?
看守は無言で紙に文字を書き込んでいた。
自分たちの会話の記録を取られているのだろう。
このまま話を続ければ、もっと内容が過激になる気がする……。
だが、止めるわけにもいかない。
自分にできることは、ただただ見守るだけ。これは親子の問題なのだし、むやみやたらと部外者が口を挟んではいけないと思う。
「そして、男は言いました。親切な家族をこれ以上殺されたくなければ、帰ってこい、と」
バートンは固唾を飲み、横目にモーガンを見ると……彼女は泣いていた。
「どうしました……モーガンさん……。気分がお悪いなら、出直しても……」
バートンが気を利かせて訊ねえると、「いえ……大丈夫です……。どうしてでしょうか……。何故か涙が……」言ってモーガンは右人差し指で目頭を押さえた。
記憶は想い出したわけではないようだが、モーガンの封印された記憶の部屋を刺激していることに間違はない。
このままキプスと話を続けていれば、想い出すかもしれない……。
それがいいことなのか? 悪いことなのかは判断する権利は自分にはない。
「男に屈し親子は男の下に戻りました。親子の生活は地獄でした。男の暴力は以前にもまして激しくなり、助けてくれる者は誰もいない」
キプスは他人事のように物語る。
モーガンは話を聞きながら、自分でもわからない涙を流す。
記憶を失くしていても、体は憶えている……潜在意識は忘れていない。
その証拠に彼女はとめどなく涙を流していた。
「男は子供にも暴力を振るう。手加減などありません。女は子供をかばいますが、暴力は終わりはしない。子供は神に祈りました。『獣に罰を与えてください』と。けれど、獣に罰が下ることはない。子供は幼いながらに悟りました。『この世に神はいない』と」
モーガンの涙で部屋の中が湿っていた。
空気が明らかに歪んでいる。
「終わらない地獄に霹靂して、子供は決めたのです。『神が裁かないのであれば、自分がやるしかない』、と。子供はナイフを手に獣を殺しました。後悔などなかった。罪悪感もなかった。ただただ終わった、そう思った」
「どうしてなのでしょう……その話を私は……どこかで聞いたことがあるような気がするのです……。けれど、どこで聞いたのか想い出せない……」
「そして翌日、獣の亡骸を見つけた女は、子供にこう言いました。『どんなことを訊かれても、何も知らないっていうのよ!』。そして女は子供の身代わりに刑務所に入った」
バートンたちはすでに理解していた。
アリシアが男を殺したのではなく……幼いキプスが男を殺したのだ。
そしてアリシアが刑務所に入った。
「子供は預けられた施設で、横暴を働く子供を再び殺しました。子供は施設からも逃げ出しまし、森で何年も生き抜いた。子供は獣と人間の狭間にいました。
人間と言うには人間として大切なものが欠落し、獣と言うには姿形が違う。正に半獣半人の存在。あるとき、ふと彼は思いました。
『人間の世界を見てみたい』
彼は森を下り、人間の世界で暮らしてみる決意を新たにしました。下界に下りた彼でしたが、人間の世界の常識や生き方など、すでに忘れていたのです。そんなときに彼の下にある男が現れました。男は彼に話を持ち掛けた。
『私と一緒に法で裁けない者たちを裁かないか』
その日から彼は男に協力し、多くの人々を殺す仕事を請け負った」
男とはジンバのことだろう。
ジンバはある政治家の息子を捕まえたことで、目を付けられ、刑事を辞めた。ちょうど、そのころジンバはキプスに出会ったのだ。
「そして彼は多くの人々を殺し、街の者たちから恐れられた。街からは少しではあるが、犯罪も減った」
キプスはそこで言葉を切り、涙で赤くなったモーガンの目に視線を戻した。
「もうおわかりでしょう。その殺人鬼が私です。モーガンさんあなたはどう思いますか。私が怖いですか?」
「怖いです……本当は怖いはずなのに……こんなに近距離で向かい合っているというのに、私はあなたを怖いと思わない……。いえ……思えない……。どうしてでしょうか? とても怖いはずなのに……怖いと思えない」
「私は産まれなかった方がよかったでしょうか?」
「その話を聞く限り、少なくとも、その話に現れるあなたの母親はそうは思わなかったと私は思います。きっと、彼女はあなたに幸せになって欲しかったのだと思います。そうでなければ、身代わりになどなりません」
モーガンは知っていないのだ。
自分がその母親であることを……。
「例え世界中の人があなたを嫌いになったとしても、母親だけはあなたを嫌いになったりなどしないでしょう」
「彼女はそうだったとしても、私は彼女のことがずっと嫌いでした……。いつも謝ってばかりで、自分だけが不幸な顔をして。いつもごめんなさい……ごめんなさい……と謝って、私は彼女のことが嫌いでした。
彼女は私を産んだことを詫びていたからです。私は詫びて欲しくはなかった」
「それは、あなたを思ってのことだと思います。産まれてきて欲しくなかったからではない。何故だかわかりませんが、私はそう思うのです。私にはあなたの母親の気持ちがわかるきがする。――あなたは愛されている」
「あなたは自分の子供がもし殺人犯になったとしても、同じことが言えますか?」
「私には子供がいないのでわかりませんが、もしデモンが。我が子のように可愛がっている犬が、人を襲い殺したとしても私は何があろうと守ります」
モーガンのその言葉には説得力があった。
数か月前の事件の日、イスカの父親であるラッセルの遺体の第一発見者はモーガンだった。モーガンはデモンがラッセルを襲ったものだと思い込み、デモンをかばうため嘘をついたのだから。
それはデモンを護ろうとしたためだ。
きっとモーガンはいなくなった自分の子供と、デモンを重ね合わせていたのだろうと思う。だから異常なまでの愛をデモンに注いでいる。
「人間が生きるのに意味など求める方がおかしいと思いますが、一人でもあなたの存在を喜ぶ人がいるのなら、いたのなら、その人は産まれてきた意味がある。例え救いようのない人だとしても、あなたを愛してくれている人がいるのなら、あなたは産まれてきて、この世に存在してくれて、ありがとうと心から思います」
キプスは言わなかった。
自分はあなたの子供だと。
キプスはきっと自分の母のことを考え、話さないことに決めたのだろう。キプスがあなたの子供だと言わなくて良かった、とバートン思う。
辛いことから逃げることは悪いことではないと思うから。
自分を護ることが悪いことなどでは決してないと思うから。
逃げることは恥ずかしいことではないと思うから。
きっと、物語ならまったく真逆のことを言うだろうと思う。
逃げては駄目だと、辛いことから、苦しいことから、逃げては駄目だと。立ち向かわなければ駄目だと。
だがバートンはそう思わない。
カレンは昔こんな話をしてくれた。
古代ギリシアの哲学者ソクラテスの話。
問答法をしているとき、ソクラテスは賢者や学者たちにこのような問いを出したという、『勇気とは何ですか?』と。
賢者は答えた、『勇気とは、敵を前にして逃げないことだ』それを聞いてソクラテスはこう返した。
『では、たった一人で大軍を前にしても逃げないのは勇気ですか』
この話の教訓は大軍を前にしても逃げないことは、勇気などではない、ということだ。キプスは母親の記憶を戻す気はない。忘れているのなら、好都合だと思っている。
家族に危険が迫らない限り、自分の危機とする状況では逃げるだろう。それとは反対に家族の誰かが危険な目に遭えば、命を賭してでも自分は行動する。そんな人に僕はなりたい――。
「あなたはデモンという犬を本当に愛しておられるのですね」
「はい。あの子のためなら命をかけられます」
キプスは微笑んだ。
優しい微笑みだった。
「そうですか。どうやら嘘ではないらしい。あなたにもし子供がいれば、その子供は幸せだったのでしょうね」
「だといいのですが……誇れる親にはなれないと思います……」
二人のやりとりは奇妙なものだった。
とても奇妙な、ものだった。
「もし、あなたにお子さんがおられれば、どのような名前をお付けになられますか」
モーガンは迷わず答えた。
まるではじめから決まっていたかのように、モーガンは名前を答えた。
その名前を聞いて、キプスは口をわずかに開き、何かを言おうとしたのだろうが、すぐに閉じた。
「良い名前ですね――」
「ありがとうございます」
すでに会話をはじめてニ十分ほどが過ぎていた。
キプスは微笑みを浮かべ、最後に言った。
「幸せになってください。私はあなたの幸せを願っています――」




