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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file92 想い出さなくてもよいこと

 デモンは病院の中に入れないので、外で待っていた。

 もうかれこれ二か月以上主人に会っていないデモンは、車の中でも落ち着きがなかったらしく、連れてくるのも一苦労だったとプヴィールはいう。


 主人に会えるということを理解し喜びの余り、尻尾が強靭な鞭のようにブンブン振り回される。手でも触れようものなら、怪我をするだろう。


 モーガンを車いすに乗せて、病院の外に連れ出す許可をもらい、デモンに逢わせた。


 デモンは主人を視界にとらえるなり、もう限界だろうと思われていた尻尾を更に激しく振りながら、舌を出して飛び掛かろうとした。プヴィールが全体重をかけて、デモンを押さえていなければ車いすが倒れていたかもしれない。


 クーンクーンと鳴くデモンはシェパードの凛々しさなど皆無。

 飼いならされた犬っころだった。


「デモン……デモン」


 モーガンはデモンのそばに寄ると、硬質な毛でおおわれた頭をなでた。

 頭を差し出して、デモンは絶対服従の意を示す。

 デモンはやっと得心して興奮が収まった。

 それから一時間ほどデモンと触れ合い、モーガンも安心した様子だった。


「そろそろ、中に入りましょうか」


 引き離してやるのは心苦しかったが、そろそろ引き上げなければならない。


「デモン……は? どうする……のですか……?」


「ケットーさんが預かってくれています。ちゃんと可愛がってくれているので、安心してください」


「ケットー?」


 ケットーのことは忘れているらしい。

 一度憶えているものごとと、わすれているものごとを確認しておいた方がいいかもしれない。


 その日からできる限り、バートンはモーガンの下を訪れることにした。

 そしてわかったことは、日常生活に必要な知識は憶えているということ。それはミロルも同じだった。


 記憶喪失者は日常生活を送る上で必要となる知識は、忘れないものなのだ。モーガンの場合も、ミロルの場合も記憶そのものを消失してしまったわけではない。


 何かきっかけさえ与えれば、ふとした拍子に想い出す可能性がある。

 それはど忘れした何かを、ふとした拍子に想い出すような感覚に近いのではないか――。


 つまり、その人物に関わりの深い何かを見せるなり、体験させるなりして脳を刺激することで記憶を呼び覚ませるということだ。


 バートンは通いながらゆっくりと昔話をモーガンに聞かせた。

 できる限り、当たり障りのない話を選びながら。

 気を付けて話していたとはいえ、ときには想い出したくもない話があったかもしれない。

 

 本人にすれば忘れたい記憶だったのかもしれない。

 このまま想い出さず、忘れたままの方が幸せなのだとも思う。


 想い出させることが本当にいいことなのか? バートンにはわからない。だが、アリシア・ケイトとという一人の女性が築いてきた記憶を、消してしまってはならないとも思う。


 人の記憶の中で生きている限り、その人は生き続けると思うから。

 キプスのことをこの世で憶えているのは、アリシアだけなのだ。


 光の差さないまどろみの中、キプスは自分の存在も不確かなまま、彷徨い続けている。


 自分も一歩間違えればキプスのようになっていたかもしれない、とバートンは思う。一歩間違えて暴走してしまえば、多くの人を虐殺できる力を自分は持っていたのだから。


 子供のころは目に映るすべてが憎かった……。

 だが、自分は暴走しなかった。

 みんなと出会えたから――記憶もなく、移ろいやすく、もろかった自分を見失わずにすんだ。


 自分はキプスと違いこの世に絶望せずにいられたから、今がある。

 もしあのときチャップに会えていなければ、もしあのとき恵みのパンをもらっていなければ、自分はもっと違った人生になっていた。


 そのときの自分がどんな行動をするかで、未来は無限に枝分かれをしている。そして、自分は最善の選択とまでは言えないまでも、幸せに通じる道を選んできた。


 自分とは反対にキプスは環境に恵まれなかっただけだ。

 人間の性格は遺伝ではなく、環境に大きく左右されてしまう。

 だからと言って、恵まれない環境に生を受けた人間が皆、犯罪に手をそめるわけではない。だが、キプスは手を染めてしまった。


 それは仕方のないことだった。

 そんな吹けば飛ぶような彼という存在を、唯一この世にとどめているのは、アリシアという優しかった母の存在だと思う。


 だから今更になってキプスは、キクマに生き別れになった母を捜してくれるように頼んだのではないだろうか。


 この際、記憶がなくとも、キプスをアリシアに会せてやりたい。

 バートンはそう思った。

 想い出せなくてもいい、想い出さない方がいい。

 だが、会わせてやりたい。自分の自己満足? きっとそうだ。


「モーガンさん」


「はい?」


 モーガンの口調は大分滑らかになっていた。


「もし、自分の子供が犯罪者になったとしたら、その母親はどう思うでしょうか?」


 話の脈絡が理解できないらしく、モーガンはベッドの上で小首を傾げた。


「もしもの話です。もしも自分がお腹を痛めて産み、可愛がって育てた子供が、犯罪を犯してしまったら、その親はどう思うものなのか? と思いまして。子供を嫌いになるのか? それとも愛したままでいられるのか?」


 簡単に答えを出してはいけない問いだと思ったのか、モーガンは一分近く押し黙っていた。


「人にもよりますが、私は子供を愛し続けると思います。子供が犯した不祥事は親の責任でもあるのですから。一緒に罪を償わなければならない、と思うのです。まあ、私が言っても何の説得力もないですが」


 モーガンは自分に子供がいることを知らない。

 教えてもいないし、教える気もない。


 子供が犯した不祥事は親の責任……。

 モーガンにキプスが犯した罪のことを話したら……どう思うだろうか……? 自分の責任だと、責めてしまうだろうか……? 


 このまま想い出さなくてもよいのではないか、とバートンは思う。

 この世には忘れてしまった方がいいこともある。

 想い出さなくてもいいこともある。


 自分も昔、親に捨てられ北の研究所というところで、UB細胞の実験をされていたという。その記憶は断片的なことしか憶えていないが、想い出したいとも思わない。


 モーガンも昔の辛かったことなど忘れたままで……残りの人生をデモンと共に送れたら幸せではないだろうか……?


 だが、そうすると……キクマの望みは叶わなくなってしまう……。

 妹の墓参りをしたい、というキクマの願いが叶わなくなってしまう……。何かいい方法はないだろうか……?

 

「モーガンさん……」


 バートンの尋常ならざる呼びかけに、モーガンは身構えた。


「はい……」


「このまま逢わない方が、モーガンさんにとっては幸せかもしれない……」


 聞こえるか聞こえないかのとても小さな声で、前置きしてから、バートンは太ももに乗せていた両手を強く握りしめた。


「どうなさいました……?」


「モーガンさんに逢って欲しい人がいるのです……」


「私に……逢って欲しい人……?」


「はい……しかし、ここに連れてくることはできない……。その人は悪いことをして、今刑務所に入っているからです……。もし、モーガンさんがよろしければ、その人に逢ってもらえますか?」

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