file88 いつまで経っても子供は子供
ミロルが眠る病室にバートンはいた。
ジンバの一件からひと月が過ぎようとしている。
ジンバの父が生涯をかけて研究した獣の力を使った再生医療。
サエモンは試験体にミロルを選んだ。
ミロルならもし失敗したとしても、もみ消せるということで選んだ、とサエモンは言っていたがバートンの願いを聞き届けてくれたのだとわかっている。
ジンバが託した書類に書かれていたことを今、実践しているところだった。保管していた銀狼の血液から血漿だけを分離させ、点滴でゆっくりと被験者の体内になじませる、という方法。
相当量の血液が必要で、銀狼一匹で一人か二人分の血漿しか作ることができないらしい。
獣の血漿は血管の中を流れ、ゆっくりと体内に浸透してゆく。
獣の細胞を体に移植するよりも被験者への負担は軽かった。
だが、今はまだ様子を見ている段階で、これからどうなるかはわからない。血漿の点滴をはじめてひと月が過ぎようとしているが、今のところ変化は見られない。
あの日から、ジンバはサエモンたちが身柄を確保している。
二十年前ジャック・ザ・リッパー再来事件に関与していた男は、拍子抜けするほどあっさりと身柄を確保されてしまった。
罪状はキプスとの共謀。
二十年前キプスに脅され、住人の個人情報を提供した件。
だがジンバはキプスに脅されて仕方なく従ったと言っているし、キプスの方も脅して従わせたと証言している。きっと、こうなることをはじめから見越して、口裏を合わせていたのだろう。
キプスと違いジンバの罪は軽いだろう。
もう二十年になるし、何より直接手を下したのはジンバではないのだから。早くて二、三年で釈放されると思う。
捕まるとき、キプスのときと同じで、ジンバも落ち着いていた。
すべて計画通り、と言わんばかりに彼は冷静だった。それがかえって恐怖心を掻き立てた。どうして二人があれほど堂々としていられるか、それは自分たちが行ったことを善だと信じて疑わないからだ。
人間は自分が正しいと思ったことには、根拠のない自信を抱くもの。
だから抵抗も何もしない。
もし抵抗して自分たちが押さえつけるということになれば、善悪がハッキリするだろう。産まれる時代がもう少し早いか遅ければ、あの二人の思想が通用する時代であったかもしれない。
夫人にはキプスとの共謀罪ということで通した。
強いショックを受けていた様子だった。
それも当然だ。
自分の知らないところで夫が悪事に手を染めているなど、考えたこともなかったことだろう。心の傷は計り知れない。
「ねえッ。ボーっとしてどうしたの。ちゃんと前見てよ。危ないからッ」
後部座席からケイリーの元気な声が飛んできて、バートンを思考の世界から連れ戻した。
「ねえッ。聞いてるの?」
「ああ、ごめんごめん。聞いてるよ。ちゃんと前見て運転するって」
バートンは久しぶりの休日を利用して実家に帰ることにした。
子供たちを義母に合わせてあげたかったし、話さなければならないこともあったからだ。
*
実家には昼過ぎに着いた。
数日前から連絡をしていたので、カレンはごちそうを用意してくれていた。作らなくていいと言ったのだが、自分のいうことを聞いてくれたことは今までで数えるほどしかないので、無理だった。
まあ子供たちはカレンの料理を楽しみにしていたから、いいと言っても本音を言えば作ってくれてありがたい。
「おばあちゃんッ」
ケイリーは実家に着くなり車を飛び降りて、家の中に駆けあがってしまった。後に取り残されたサムはどうしていいのか、しどろもどろ。
「サムを連れて先に入っていてくれ。僕は車を止めてくるから」
「わかった」
セレナは戸惑うサムを連れて、車を降りた。
実家には車を止められるだけのスペースがない。
もともと馬車が二台、行き来できるほどのスペースしかなく、家が立ち並んでいるせいで駐車場を作る余裕もない。
狭い通路を抜けて、町の出入り口近くまで戻り、開いていた空き地に車を止めさせてもらう。小走りで五分ほどの距離にある実家に急いだ。
もう年なのか経った五分ほど走っただけで息が上がる始末。
実家に上がるとキッチンのテーブルで四人仲良く昼食をとっていたので、何だか疎外感を感じてしまう……。
僕を待ってくれていてもよかったんじゃないか、と思ったが当然口には出さない。
「ただいま」
リビングの敷居をくぐりバートンが言うと、「おかえりなさい」とカレンは応じた。
「あなたも食べなさい」
「ああ、ありがとう」
律義に手を洗ってからバートンはテーブルに着く。
普段は手洗いなど忘れてしまうのだが、カレンの前では否が応でも想い出す。いつまで経っても子供は子供。しつけが厳しかったのだ。
料理は昼だというのに、手の込んだものだった。
まるでホテルの料理のようである。
前菜からはじまりスープ、肉料理、ブレッド、サラダにデザート。
前菜はゼリーのような、肉のような、魚のすり身のようなものの塊だった。スープはコンソメスープ。肉はトロトロに煮込んだ牛のブロック肉。ブレッドにはバターや蜂蜜、チーズをお好みに。
バランスが取れるようにレタスやトマト、パプリカなどの野菜もある。子供たちが何より喜んだのはカレンが作った、チーズケーキだった。
昔からだが本当にカレンは料理が上手い。
食の細いサムもよく食べるほどに。
久しぶりに家族団らんの時を過ごした。
とても充実した時間。
本当に幸せだった。これもすべてはあの日あの時、チャップに出会えたからだ。そしてみんなに出会った。その中には今の妻もいる。
食事が終わり、セレナが食器を片付けた。子供たちは学校であったことや、最近の近状を誇張しながら面白おかしくカレンに語り聞かせている。
カレンは聞き上手で、子供たちは普段自分に話してくれないようなことでもカレンに話した。
ひとしきり話終わり、子供たちは町の散策に行きたいと言い出した。
仕方なく、セレナは子供たちを連れ出すことにする。
「それじゃあ行ってきます。夕方までには帰ります」
「行ってらっしゃい。ゆっくりしていらっしゃい」
セレナたちを見送って、カレンとバートンは久しぶりに親子水入らずになった。
「私に話したいこととは何ですか?」
カレンは落ち着いた口調で切り出す。
昔からそうだが、カレンと向かい合っていると叱られているような気がして落ち着かない……。つくづくいつまで経っても子供は子供だと思う……。
「ああ。実はUB細胞のことなんだ」
カレンは獣の細胞のことも知っていた。
化け物だと知っていて、自分を実の子のように育ててくれたのだから。
ジンバのことキプスのこと、ここ一か月ほどのことをすべて打ち明けた。
「ミロル君に投与している血漿で、本当に脳を再生できるか、ということですね。そして、あなたは今も迷っている。ダイナマイトのような、不の使い方をされないか、と。自分がしたことが本当に正しいのかどうか迷っている」
バートンは首を捻り、「まあ……そうなるのかな」とうなずいた。
「正しいかどうかなど誰にもわかりませんよ。正しいか正しくないか決めるのは自分です。あなたは家族を救うために行動した。そして、わずかな可能性に掛けた。
なら迷ってはなりません。あなたが迷うことで、可能性はなくなってしまいますよ。ノーベルの発明は確かに多くの人の命を奪ったことは確かですが、その償いに多くの人の命を救い、莫大な財産でノーベル賞を作った。人間は過ちを犯してもやり直すことができる。間違いから学ぶことができるの生き物です」