file87 例え偉人にはなれずとも
サエモンの表情は厳しいものだった――。
「確かにノーベルはダイナマイトを生み出し、人類に貢献した。けれど、多くの人々の命を間接的に奪ったことに変わりはない」
サエモンの言う通り、すべての物事は犠牲なくして成り立たない。何をするにも人柱が存在する。数えきれない星の数ほどの犠牲の上に、文明社会は保たれているのだ。
「あなたは偉人にでもなろうとしているのですか」
ジンバは目尻に皺を刻み、喉を震わせて小さな笑い声を上げた。
「偉人にはなれずとも、英雄にはなれます」
ジンバの口調に力がこもり、サエモンを睨み据えた。
目に見えない拳銃を突き付け合っているかのような、一触即発の空気……。
「何馬鹿なおことを……」
サエモンは心底呆れた様子だった。
「私の言うことを信じてくれれば、少ない犠牲で、より多くの命を救うことができる」
「救う以前に適合できず死んでしまうかもしれない……。どれほどの、犠牲を出すつもりですか?」
「父が残してくれた研究のデータがあります。予想よりは、少ない犠牲ですむかもしれない。父は死ぬ前、完成とはいかないまでも、UB細胞を使った再生医療の成功率を上げています。その方法なら、より小さなリスクで人間にUB細胞を適合させることができるかもしれない」
ジンバの言葉に心が一瞬なりとも揺らいだのか、サエモンは眉をしかめた。
「データ?」
「父が極秘に研究していた再生医療のデータです。獣の戦士を生み出す研究ではない、人の命を救う研究。100%成功すると保証はできませんが獣の戦士を作るよりは、成功率は高い」
「データが……あるのですか……? そのデータを見せてください」
「了承してくれる、ということですか?」
「そうは言っていません」
サエモン首を縦に振らなかった。
とても高度な心理戦の末、ジンバは動いた。
「わかりました。持ってまいります」
ジンバはソファーから立ち上がって、廊下に消えた。踵が階段を上る音が聴こえ、しばらくして踵が階段を下りる音が聴こえた。
リビングに現れたジンバの手には黄ばんだ紙が数枚握られていた。
時の流れを感じさせる紙だった。日焼けした古本のような橙色と黄色の中間色。乾いて指が触れるだけで、崩れてしまいそうな紙。
「これが、父が私に託した研究の集大成」
ジンバはソファーに座り、「だが、私は父の意志を継ぐことはなかった。今の私には無用の長物」と言ってテーブルを滑らせ、サエモンの前に三枚の用紙を置いた。
書類に落としていた視線が睨み上げるようにジンバを見つめて、「拝見してもよろしいですか?」と緊張にこわばった声でサエモンは訊ねた。
ジンバは軽くうなずく。
サエモンはテーブルに置かれた書類を宝石でも扱うような慎重さで、いやそれよりももっと危険な代物、ダイナマイトを扱うような慎重さで手に取り、ゆっくりと文字を追う。
読むのがとてつもなく速いサエモンにしては珍しく、一言一句噛みしめているかのように、同じ場所を視線が行き来していた。たった三枚の紙に十分を費やして、絞り出すような声でサエモンは言った。
「これは本当なのですか?」
「論理的に不可能ではありません」
「しかし、そんなことで……」
「これは獣人を作る目的ではなく、再生能力の向上を目的としているのです」
二人の世界にバートンたちはまったく話しについていけなかった。
「もし、あなたに出会わなければ、このデータは墓場まで持って行くつもりでした。だが、数々の偶然が私とあなたを巡り合わせた。これはもはや必然。すべては因果律の下に繋がっている。サエモンさん。どうですか。試してみる価値があるのではないでしょうか?」
「しかし……そんなことを試せるはずが……。もし失敗すれば……」
さっきまで駄目の一点張りだったサエモンが、書類に目を通しただけのことで明らかに態度を変えていた。その書類にはそれだけの価値があるということか……?
「サエモンさん……」
バートンは口をついてた。緊張の糸が張りつめていた空間に、間の抜けた声。視線は一斉にバートンに向けられた。
「何ですか?」
皆の視線に一瞬怯んだバートンだが意を決して言った。
「試験体がいるのなら、サエモンさんが試す価値があると感じたのなら、試験体には、ミロルをッ。ミロルを使ってくださいッ」
自分勝手なお願いだとはわかってる。他者の命を自分の都合で売り渡す行為。倫理的に考えて、異常としか思えない。
だが、これは家族の意向であり意思なのだ。例え血が繋がっていなくとも、自分はミロルの家族なのだ。決める権利があっていいだろう――。
チャップ、セレナ、アノン、カノン、そして自分はミロルの家族。だから、ミロルの意志をくみ取り判断をくだす義務があるのだとバートンは思う。
「お願いします……。少しでもチャンスがあるのなら、試してください……。お願いします……」
バートンは頭をテーブルにつけて懇願した。
「あなたに彼の命を左右する権利などない」
サエモンはつよく、ツヨク、強く、言った。正論だ。だが、ここで引いたらもう何も変わらない気がした……。ここが踏ん張りどころなのだと……引いちゃ駄目だ、と。
「もし細胞が必要なのだとしたらッ。僕の体を使ってください。僕にできることなら、どんなことでもします。だから、お願いします……」
バートンは顔を上げなかった。
ずっと、何十秒も頭をテーブルに着けている。
「それは不可能です」
サエモンは静かに言った。
「お願いします……。細胞が必要ならこの僕が……」
「だから、不可能だと言っているでしょ。あなたにはもう獣の細胞はない。あなたの体からは、細胞が駆逐されている」
バートンは顔を上げて、サエモンを見た。
「それはどう言うことですか? だって、僕は……」
「身に覚えはありませんか? あなたにはもう強靭的な再生能力は備わっていない。刃物で傷つくし、怪我も負う。思い当たる節はありませんか?」
サエモンに言われバートンはいくつかの出来事を想い出した。
デモンに襲われ腕を怪我したあのときも、傷の治りが遅かった……。あのとき自身の体の変化に気付くべきだった。普通に慣れ過ぎていて、考えることすら放棄していたのだ。自分にはもう再生能力はない……生身の人間。
幼いときはどうして自分だけ人と違うのだろう……と。力なんていらない……と思っていたのに、今はこれほどまでに、あの化け物の力を必要としているなんて……あまりに滑稽だった。
「あなたになど協力してもらわずとも、治療に必要ものなら持っています」
地の底に突き落とされたバートンの気持ちに、一筋の光が差した。
「本当ですか……」
「あの銀狼と呼ばれた狼がそれですよ――」