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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
302/323

file87 例え偉人にはなれずとも

 サエモンの表情は厳しいものだった――。


「確かにノーベルはダイナマイトを生み出し、人類に貢献した。けれど、多くの人々の命を間接的に奪ったことに変わりはない」


 サエモンの言う通り、すべての物事は犠牲なくして成り立たない。何をするにも人柱が存在する。数えきれない星の数ほどの犠牲の上に、文明社会は保たれているのだ。


「あなたは偉人にでもなろうとしているのですか」


 ジンバは目尻に皺を刻み、喉を震わせて小さな笑い声を上げた。


「偉人にはなれずとも、英雄にはなれます」


 ジンバの口調に力がこもり、サエモンを睨み据えた。

 目に見えない拳銃を突き付け合っているかのような、一触即発の空気……。


「何馬鹿なおことを……」


 サエモンは心底呆れた様子だった。


「私の言うことを信じてくれれば、少ない犠牲で、より多くの命を救うことができる」


「救う以前に適合できず死んでしまうかもしれない……。どれほどの、犠牲を出すつもりですか?」


「父が残してくれた研究のデータがあります。予想よりは、少ない犠牲ですむかもしれない。父は死ぬ前、完成とはいかないまでも、UB細胞を使った再生医療の成功率を上げています。その方法なら、より小さなリスクで人間にUB細胞を適合させることができるかもしれない」


 ジンバの言葉に心が一瞬なりとも揺らいだのか、サエモンは眉をしかめた。


「データ?」


「父が極秘に研究していた再生医療のデータです。獣の戦士を生み出す研究ではない、人の命を救う研究。100%成功すると保証はできませんが獣の戦士を作るよりは、成功率は高い」


「データが……あるのですか……? そのデータを見せてください」


「了承してくれる、ということですか?」


「そうは言っていません」


 サエモン首を縦に振らなかった。

 とても高度な心理戦の末、ジンバは動いた。


「わかりました。持ってまいります」


 ジンバはソファーから立ち上がって、廊下に消えた。踵が階段を上る音が聴こえ、しばらくして踵が階段を下りる音が聴こえた。


 リビングに現れたジンバの手には黄ばんだ紙が数枚握られていた。

 時の流れを感じさせる紙だった。日焼けした古本のような橙色と黄色の中間色。乾いて指が触れるだけで、崩れてしまいそうな紙。


「これが、父が私に託した研究の集大成」


 ジンバはソファーに座り、「だが、私は父の意志を継ぐことはなかった。今の私には無用の長物」と言ってテーブルを滑らせ、サエモンの前に三枚の用紙を置いた。


 書類に落としていた視線が睨み上げるようにジンバを見つめて、「拝見してもよろしいですか?」と緊張にこわばった声でサエモンは訊ねた。


 ジンバは軽くうなずく。

 サエモンはテーブルに置かれた書類を宝石でも扱うような慎重さで、いやそれよりももっと危険な代物、ダイナマイトを扱うような慎重さで手に取り、ゆっくりと文字を追う。


 読むのがとてつもなく速いサエモンにしては珍しく、一言一句噛みしめているかのように、同じ場所を視線が行き来していた。たった三枚の紙に十分を費やして、絞り出すような声でサエモンは言った。


「これは本当なのですか?」


「論理的に不可能ではありません」


「しかし、そんなことで……」


「これは獣人を作る目的ではなく、再生能力の向上を目的としているのです」


 二人の世界にバートンたちはまったく話しについていけなかった。

 

「もし、あなたに出会わなければ、このデータは墓場まで持って行くつもりでした。だが、数々の偶然が私とあなたを巡り合わせた。これはもはや必然。すべては因果律の下に繋がっている。サエモンさん。どうですか。試してみる価値があるのではないでしょうか?」


「しかし……そんなことを試せるはずが……。もし失敗すれば……」


 さっきまで駄目の一点張りだったサエモンが、書類に目を通しただけのことで明らかに態度を変えていた。その書類にはそれだけの価値があるということか……?


「サエモンさん……」


 バートンは口をついてた。緊張の糸が張りつめていた空間に、間の抜けた声。視線は一斉にバートンに向けられた。


「何ですか?」


 皆の視線に一瞬怯んだバートンだが意を決して言った。


「試験体がいるのなら、サエモンさんが試す価値があると感じたのなら、試験体には、ミロルをッ。ミロルを使ってくださいッ」


 自分勝手なお願いだとはわかってる。他者の命を自分の都合で売り渡す行為。倫理的に考えて、異常としか思えない。


 だが、これは家族の意向であり意思なのだ。例え血が繋がっていなくとも、自分はミロルの家族なのだ。決める権利があっていいだろう――。


 チャップ、セレナ、アノン、カノン、そして自分はミロルの家族。だから、ミロルの意志をくみ取り判断をくだす義務があるのだとバートンは思う。


「お願いします……。少しでもチャンスがあるのなら、試してください……。お願いします……」


 バートンは頭をテーブルにつけて懇願した。


「あなたに彼の命を左右する権利などない」


 サエモンはつよく、ツヨク、強く、言った。正論だ。だが、ここで引いたらもう何も変わらない気がした……。ここが踏ん張りどころなのだと……引いちゃ駄目だ、と。


「もし細胞が必要なのだとしたらッ。僕の体を使ってください。僕にできることなら、どんなことでもします。だから、お願いします……」


 バートンは顔を上げなかった。

 ずっと、何十秒も頭をテーブルに着けている。


「それは不可能です」


 サエモンは静かに言った。


「お願いします……。細胞が必要ならこの僕が……」


「だから、不可能だと言っているでしょ。あなたにはもう獣の細胞はない。あなたの体からは、細胞が駆逐されている」


 バートンは顔を上げて、サエモンを見た。


「それはどう言うことですか? だって、僕は……」


「身に覚えはありませんか? あなたにはもう強靭的な再生能力は備わっていない。刃物で傷つくし、怪我も負う。思い当たる節はありませんか?」


 サエモンに言われバートンはいくつかの出来事を想い出した。

 デモンに襲われ腕を怪我したあのときも、傷の治りが遅かった……。あのとき自身の体の変化に気付くべきだった。普通に慣れ過ぎていて、考えることすら放棄していたのだ。自分にはもう再生能力はない……生身の人間。


 幼いときはどうして自分だけ人と違うのだろう……と。力なんていらない……と思っていたのに、今はこれほどまでに、あの化け物の力を必要としているなんて……あまりに滑稽だった。


「あなたになど協力してもらわずとも、治療に必要ものなら持っています」


 地の底に突き落とされたバートンの気持ちに、一筋の光が差した。


「本当ですか……」


「あの銀狼と呼ばれた狼がそれですよ――」

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