file28 『狼少女の告白』
あれから何年過ぎただろう。
私は成人、と呼べる歳になっていた。たぶん、二十は過ぎた。ハッキリとした年齢はもう忘れた。いや、完全に忘れたわけではない、自分にはもう年齢など必要なかった。
ただ、必要なのは二十は過ぎた、という認識だけだ。
ウサギを殺したあの日から、私は生まれ変わった。この世の真理を悟ったような感覚。
あの日から私は森で生き抜くすべを学んだ。火の起こし方。食料の取り方。寒さのしのぎ方。暑さのしのぎ方。生きる上で必要な知識を私は手に入れた。
もう、私は一人で生きられる。
「どうしたの」
女の声が聞こえた。
「いや、どうもしないよ」
私は答える。いま目の前にいるのは人間の女だ。
私は二十を過ぎた日に、森から出た。
私には使命があったから。私には声が聞こえるから。だから、私は森を出た。
「何か考え事をしているようだったから?」
月の光に照らされて、女の白い肌を青白く照らす。
長い髪がベッドに乱れ、組みびいた女のうるんだ瞳は私を写す。
「いや、ちょっと昔のことを思い出していたんだ」
私は昔のことを思い出していた。長い、長い、昔の記憶を思い出していた。
もう、昔のことだ。心配そうに歪む女の唇を私の口が塞いだ。
バートンは恐怖に震え、硬くこわばりカラカラになった口を開き、樹のふちで丸まっている、イスカを呼んだ。
「イスカ……」
声がかすれ、自分の声だとは思えない。
こんなんで、聞こえるのか。
聞こえていないと思われたとき、イスカの肩がびくり、と震えた。膝に付けていた、顔をゆっくりと上げ、バートンの方を向く。
イスカは驚きを通り越し、瞳を大きく見開いていた。
樹に背中をピッタリとくっ付けて、イスカは立ち上がる。今にも崩れ落ちそうな、危うさがあった。
「お……おじさん……どうして……ここにいるの……?」
虚ろな目にバートンを写しながら、イスカはいった。普通なら聞こえない、音量だが今の研ぎ澄まされた聴覚には、耳元で囁かれているかのように、ハッキリと聞こえた。
何よりも不思議だったのは、イスカは狼たちを恐れていないように見えること、だ。狼に気付いていないのか。いや、そんなはずはない。
周辺を狼たちに囲われ、気付かないはずがなかいからだ。
それに、バートンたちの前方に立つ、狼はイスカを守ろうとするかのように、見えるのも気がかりだ。
「君を探しに来たんだよ……」
狼たちを興奮させないように、敵意のないことを示す負け犬のような弱々しい声でいう。
この状況で助け、森をでることができるのか。
狼に食い殺される、不吉なイメージしか浮かばない。
「ヤーク、この人たちは悪さしないよ」
イスカは誰に言ったのか、突然バートンたちの方を向いていった。イスカの発言と共に、目の前の狼が威嚇の体勢を解き、牙をしまう。
そして、バートンたちを一瞥すると、のそのそとイスカの方に寄り、「キュー」と鳴き、「ィン」と鼻から空気を抜くような低い音が聞こえた。
誰が想像できよう、この光景を。例え小説家でも、無理だろう。事実は小説より奇なり、とはこのことだ。誰も想像もしていなかった現象を目の当たりにした。
巨大な狼がまるで母親に甘える子犬のように、イスカの腕に頭を擦りつけている、光景を。誰が想像できよう……。
まるでゴロゴロと喉を鳴らしながら、飼い主に甘える猫のようだ。
バートンたちがあんぐりとしているのを見ると、イスカは、「この子たちは人を襲わないって、言ったでしょ」と、狼の頭を撫でながら、いう。
撫でられる狼は目を細めて、されるがままだった。これじゃあ、飼い犬じゃないか、とバートンは思う。
気付けば、樹の陰に隠れていた、狼たちがイスカの周りに集まりだしているではないか。
一体この子は何者なんだ、とバートンは狼以上にイスカに恐怖を覚えた。
イスカの周辺にいた狼たちは何を思ったか、数頭森に姿を消した。警戒を解いたのだろうか。そして、残った三匹がイスカの前、右横、左横、と守るようにして、お座りのポーズをとっていた。
「この村には子供がいないでしょ」
右横の狼を撫でながら、イスカはいう。
何を言っているんだ、バートンは答えあぐねている、とイスカは構わず話を続ける。
「この村には私しか子供がいないの……。小さいときから遊び相手がいなかったの……」
一体、その話とこの状況がどう関係しているというのだろう。バートンは不審な目で、イスカを凝視しするが、イスカはバートンの目を見ていない。
イスカは狼の硬そうな毛の中に細い指を入れ、梳くように撫で続けている。視線を落としたまま、「だから、寂しくて、寂しくて、悲しくて……」と、眉根を八の字に吊り上げて、悲し気にいう。
「小さいときから一人で山に遊びに来てたの……」
そのとき、太陽が雲に隠れ、森はひと際暗くなる。
日食のように。
「そのときに出会ったの――この子たちに」
出会った、この子たちに、この子は何を言っているのだろう、バートンは薄々気が付きはじめた。
「狼に……?」
イスカは落としていた、視線を上げてバートンを見据え、うなずいた。
確かに、猛獣と仲良くなった人間の事例は聞いた事があるが、その殆どが、赤ちゃんのときから育てている、というトリックがあるのだ。
しかし、イスカがその歳で子狼を育てていた、はずはないはず、だ。だったら、どうして野生の猛獣がイスカに懐いているのか、分からない。頭が付いて行かなかない。
「始めは怖かったわ。私の周辺を狼たちが囲っていたんだから」
イスカは回想をはじめる。
「だけど、この子たちは私を襲わなかったの。それどころか、遊んでくれたんだから」
「遊んでくれた……?」
この子たちが遊んでくれたの、意味が理解できない。
犬とボール遊びをする感覚ではないだろう。想像してみたが、まったく見当が付かない。
「この子たちに色んなところに連れて行ってもらったり、色々なことを教えてもらった」
「教えてもらったって? 狼はしゃべれないだろ……?」
悲しそうな、顔をしてイスカは首をふる。まるで、何で大人は分かってくれないの、と訴えかけているようだ。
「言葉は分からなくても、私にはこの子たちの言っていることが分かるの!」
イスカは異常とも思える必死さで、バートンに言い返す。
バートンは気圧され、何も言えない。この話を聞いて、キクマはどう思っているのだろうか。振り向いて、キクマの表情を確かめたいが、狼の魔力ともいうべき力が宿る瞳がそれを許さない。
「だから、私にはこの子たちが人を襲っていないことは分かっていたの……なのに信じてくれなかった……!」
狼は慰めるような、声を上げてイスカの頬を舐めた。
「信じてたさ」
「信じてくれてなかった!」
イスカの頬から雫が流れ落ちる。大粒の雫が、次から、次へと流れ出る。
イスカは泣いていた。イスカは涙を流しながら、バートンにいったのだった――。