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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file83 道徳的正義を貫く者と己の正義を貫く者と

 夫人はリビングに張りつめる重々しい空気などおかまいなしに、「お待たせ」と持っていたトレイをテーブルの上に置いた。


「何の話をしていたんですか?」


 重々しい空気などお構いなしなのではなく、空気がわからないのかもしれない。


「刑事さんたちは、私の刑事時代の上司を知っていると言うんだよ」


「まあ、本当に。それって、すごい運命の巡り合わせじゃないかしら」


 夫人が驚きに声を上げると、「いや、必然だよ」とジンバは訂正した。


「ジンバさんはどうして、刑事の仕事を辞めたのですか?」


 キクマは夫人の前だというのに、お構いなしだった。

 ジンバも気にしている様子はない。ただ、顔に出さないだけなのか? それとも本当に気にしていないのか? 判然としない。


「そうですね」


 ジンバはしばらく考えてから、一言一言慎重に言葉を選び切り出した。


「私の性分に合わなかったからです」


「性分に合わない?」


「はい。あなたも特別捜査係にいるのならわかるはずです。なかなか、仕事を回してもらえない。回される事件はどこの部署も手を上げた物ばかり。今もそうなのかわかりませんが、私がいたときは、墓場と揶揄されていたんですよ」


「今でも同じですよ。島流しと同じ扱いをされています」


 キクマは微笑みもせずに、淡々と答えた。


「裁かれることなくのさばっている奴らを、私は捕まえるため、刑事になったというのに、一向にそれが叶わなかった。署の一室で毎日毎日、日が暮れるのを待つだけ」


「特別捜査係に回されたということは、上に嫌われるようなことを犯したということですよね」


「嫌われることですか……。私は正しいことをしたと、今でも思っていますがね」


 ビルマは自嘲気味に言って、天を仰いだ。


「名前をいうことはできませんが、昔、強姦魔の男を現行犯で捕まえたことがあるんです。まだ、二十歳にも達していない男でした。その男は執行猶予もつかずに、捕まったその日に釈放されましたがね。

 その男の父親はカエルのような顔をした政治家で、きっとそいつが手回しをしたのでしょう」


 カエルのような顔の政治家? バートンは幼いころ、どこかでカエルと揶揄される政治家の話を聞いたことがあるような気がしたが、想い出せなかった。


「私は上司に何度も訴えました、どうして彼は釈放されたのか。おかしい、間違っている。何度も何度も訴えました。けれど結局聞き入れてもらえませんでした。

 組織の下っ端がどれだけ正義を唱えようとも、聞き入れてもらえるはずがありません」


「そして、あなたは島流しにされた、と」


「そうです。特別捜査係。そこはある一人の男を、置いておくためだけに作られた島でした。良い言い方をすると、どこの部署も手を上げた不可解事件を専門に扱った部署。悪いい方をすると、大戦の英雄、ウイックさんの天下り先。私は昔からその人を知っていました。父親が彼と関りがあったので」


 もともと正義感の強かったジンバは、ウイックのような人間とは釣り合わなかったのではないか、とバートンは思う。


「私はそこで数年間辛抱しました。いつか返り咲ける日を夢見て」


「だが、あんたは辞めた」


「はい、そのままそこにいれば自分は腐ってしまうと思ったからです」


「あなたにそんなことがあったなんて、知らなかったわ。あなたから『近いうちに村に帰る』って連絡があったときは本当に驚いたもの。確か、ちょうどその前後だったのよ。アリシアさんと出会ったのは。

 それで、アリシアさんにも色々あって、この際だから村に連れて行こう、と思って――」


 夫人は納得したように深くうなずいた。


「と、いうわけがあり、私は刑事を辞めたのです」


「やめてからはどうしていたんだ?」


「村に帰ってきましたが」


「俺たちがウイックから聞いた話と、少々違うように思うんだが。なあ、バートン」


 キクマは探りを入れるような口調で言い、バートンにも相づちを求めた。もしかして、夫人がいる前でその話をするつもりなのか……?


 もし、ウイックの話が本当なら、つまり……刑事を辞めた後にジンバはジョン・ドゥと何らかの形で知り合い、犯罪の斡旋をしたことになる……。


「え……。いや……はい……」


 バートンは返す言葉に困り、どっちつかずの言葉しか出てこなかった。


「ヴァネッサ。席を外してくれるか」


 ジンバは慌てることなく、落ち着いた声で夫人に言った。

 夫人は何が何だかわからないまま、「はい。わかりました」と言って素直に席を外し、廊下側のとびらに消えた。


「やはり、彼から話は聞いているようですね。あのとき始末して置かなかったのは、私の失敗だったのか、それとも――」


 あのとき、いったい何のことを言っているのか、バートンにはわからない。


「ジンバさんあんたは、ジョン・ドゥと共謀して多くの人の命を殺めたんだな」


 キクマなりの気遣いなのか、声は静かで、とびらの外から聞き耳を立てていたとしても聞こえないほどの声だった。


「この世には法では裁かれない人間が多く存在しているのです。私は世界をより良いものにするために、刑事という職に就いたというのに、やっていることは犯罪の片棒を担いでいるに等しかった。

 そんなとき、私は彼と出会ったのです。髪はぼさぼさ、瞳は獣のように鋭く穢れなく、かと言って人間のような知性を秘めている」


 それは違う……人間が感情で人を裁くようになったら、この世は無法地帯になってしまう……。二人に聴こえるほどの小さな声でジンバは続けた。


「一目見て、私はシンパシーを感じました。彼は私と同類の人間なのだ、と。私と同じように人間を嘆き、けれど愛している。そう、私は直感しました。そして、私は彼に近づき、彼のことを知った。

 裁かれずに暴力を振るい続ける父親を、自分の手で殺したこと。施設にのさばっている小さな獣を殺めたこと。

 そして私は彼を雇い、裁かれずにのさばり続けている人間たちに制裁を加えることにした。そういった人間の所在は、仕事柄よく知っていましたから、捜すのは容易でした」


 ジンバは自分の両手の平を眺めながら語り続けた。

 自分の血塗られた手を見て、彼は何を思っているのかわからない。

 本当にそれが、彼の行いたかった正義なのだろうか?


「神にでもなったつもりか?」


 キクマは軽蔑の混じった低い声で、小さな罵倒を浴びせるかのように言った。


「いえ、そこまでおごってなどいません。神など存在しない。だから、私が正義の代弁者となろうと決めた。声を上げられずに、苦しんでいる人々を救う者に」


「人殺しで本当に救えると思ってんのか?」


「すべての者を救うことはできない。だが、ごく一部の本当に苦しんでいる者は、救うことができる。私はそう信じて今までやってきた」


 ジンバの瞳に迷いはなかった。

 本当に心の底から思っていることだろう。


「自己満足を終えて、後は何事もなかったように殺人鬼と共に村で隠居生活か?」


「そう見えても仕方がないですね」


「そう見えるんじゃねえ。そうなんだよ。そのまま、おとなしく隠居生活を送っていればよかったものを、どうしてまた、それも村の住人を殺したりしたんだ?」


「苦しんでいる方がいたからです。ラッセルさんはキスカさんに暴力を振るい、ビーンさんは皆が手を焼く乱暴者だった。これも、この素晴らしい村の調和を保つためには、仕方のないことだったのです。

 この村では皆助け合って生きている、人間の本来あるべき姿をした人々がいる。それなのに、ごく一部の者が調和を乱す」


 それはとても危険な独裁者の思考だった。 


「そのために邪魔者は消すってか? そんなんだったら、あんたが島送りにされたことと同じじゃねえか。自分に不都合な者はいらない。あんたも、あんたが忌み嫌う人間と同じことをしているんだぞ」


 今まで微動だにしなかったジンバの表情が一瞬だけ微かに歪んだ。

 

「確かに、同じことかもしれませんね。けれど、後悔はない。それで救われた人がいるのは事実です」


「いえ……」


 開き直ったジンバにバートンが言葉をついた。


「いえ……ジンバさん……あなたは間違っていますよ……。ラッセルさんが死んだことで……イスカちゃんは悲しんでましたよ。確かに暴力を振るう父親だったかもしれません……けれど、彼女にはこの世でたった一人の父親だったんですよ……」


 バートンはあのときのイスカの泣き顔を想い出した。

 家の前で顔を真っ赤に腫らして泣き崩れた彼女の顔……。あの涙は偽りではなく、悲しみからこみ上げてくる本物の涙だった……。


「どんな酷い人間だからと、殺していいことにはならないでしょ……。今と同じ台詞をイスカちゃんの前で胸を張って言えますか……?」


 ジンバは目を伏せて、「彼女の前では胸を張って今と同じ台詞を言うことはできないでしょう……。けれど、後悔はしていません。後悔した、と言うと、今までの自分を否定することになる」再びバートンの目を見た。


 ジンバの瞳に宿っている魂に揺らぎはなかった――。

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