file79 半獣半人だった人
カレンは脈絡のない話を振られても、戸惑った様子を見せなかった。
「アリシアさんと半年ほど暮らしたことがあります。アリシアさんは旦那の暴力に耐えかねて、逃げてきたのですよ」
王族貴族のような気品ある、ハッキリとした発音で、カレンは答えた。
「ええ、色々な方からその話は聞きました。そして、アリシアさんには子供がいたはずです。その子供は色々なわけがあり、成長して、今では殺人犯になりました」
カレンは塞いでいた目を一瞬驚きに見開いて、すぐに冷静ないつもの表情に戻った。
「そうですか……。時の流れとは残酷ですね……」
「今、アリシアの子供は刑務所に入っています。――これだけ聞いても、私たちが訪ねてきた意味はわからないでしょう」
カレンは愛想笑いを浮かべることなく、「ええ」と正直に答えた。
「私たちが、ここに来た目的は、アリシアの子供の名前を教えて欲しいからです。ご婦人なら知っているのではないか? とバートンが言ったのです。殺人犯は自分の失われた名前を知りたがっている。私はその殺人犯の頼みで、名前を知らなければならない」
カレンは一の言葉で十を理解する力があった。
わずかな表情の変化、瞳孔の収縮。まるで相手の心を読んでいるかのように相手の考えを予知することができる。子供のころ嘘をついても、カレンにはすぐに見破られた。
「警部さんはその方に何か弱みを握られているのですね」
キクマは歯を剥いて、苦笑した。
「鋭いですね。その通りです。他者からしてみれば大した弱みには思えないでしょうが、私からすればとても重大な弱みなのでしょう。でないと、そんな殺人犯の頼みなど聞いていないでしょうね」
カレンは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、そして顔を曇らせた。
「お力になれず申し訳ありません。知りません」
カレンは頭を下げた。
「いえ、仕方のないことです。もう四十年近く昔のことなのですから、憶えていなくて当然です」
そう平然と言ってみせたが、キクマの心の中は複雑だった。
「いえ、私は一度覚えたことはそうそう忘れはしません。人名ならなおさらです。小さいころから、今までの記憶を鮮明に語り聞かすこともできましょう。けれど、アリシアさんのお子さんの名前だけ、ぽっかりと記憶から消えてしまったかのように、想い出せないのです……」
矯正長のときも、訊ねた先々でもそうだったように、カレンでさへも憶えていないとは……。いったい、どうなっているのだろうか……。
「確かに私は彼の名前を何度も呼んだことがあります。けれど、彼の名前を口に出した映像記憶の音声だけが、ぽっかりと無くなってしまっているのです。お力になれず、誠に申し訳ありません」
カレンでも憶えていないのなら、もうこの世に名前のない獣の名前を憶えている者はいないのではないか……?
その話はそれでお開きとなり、出されたハーブティーを静かに飲みほして、「かあさん、ありがとう。今度は子供たちを連れてくるよ」とバートンは立ち上がった。
「ええ、いつでも連れてきてちょうだい。あらかじめ知らせておいてくれれば、何かごちそうを用意しておきます」
「ありがとう」
「何か私に手伝えることがあるなら、いつでも言ってちょうだい。力になるわ」
カレンは二人を玄関まで送っている途中で言った。
「ああ、ありがとう。心強いよ。それじゃあ、体には気を付けて、何かあったらすぐに電話してくれよ」
「はい。わかっています」
バートンは革靴に足を通して、「それじゃあ。また来るよ」ととびらに消えた。
*
帰路を運転しながら、バートンはこれからのことを考えた。
カレンなら憶えていると一方的な期待を抱いていたが、記憶からぽっかりと獣の名前だけが切り取られている。これは超常的な何か、が働いているとしか思えない。
やはり、モーガンから聞きだすしかないようだ。
だが、どうすればいいのだろう……。主治医が言うには、目覚める可能性は限りなく低いという。現代医学では、モーガンの治療は難しい……。現代医学では……だ。
このまま、死を待つよりは……UB細胞を移植し蘇生を試みる方がいいのではないだろうか……。そんなことが頭を過る。あの圧倒的な再生能力……。自分は身をもって知っている。
古代の人々は闘いに身を投じるときに、獣の血肉をわが身に取り込み、獣の皮をまとった。その行為から生じる一種のトランス状態になることで、強靭的な力を手に入れる。
獣の力を研究する中で、人間は獣の細胞と人間を結び付け獣人を生みだした。人間と獣の怪物。圧倒的な力と不死に近い再生能力。その姿形は物語の中などで語られる狼人間そのものだった。
人知を超越したその力を再び蘇らせてはならないと、わかっている。
だが、力は使う者によって悪用もできるし善用もできるのだと思う。
「警部。これから、どうしますか」
バートンは物思いから一端抜け出し、キクマに訊いた。
「もういい。付き合わせて悪かったな」
「どうしたんですか……。警部らしくないですよ。いつもの警部ならこれしきのことで諦めないでしょう。キクナさんの墓はどうするんですか……」
キクマは窓に映ったバートンを見て、「仕方がねえじゃねえか。それに、もういいんだ。とっくの昔に諦めが付いていたことだ。諦めが付いていたはずなのに、変な気を起こしちまった」とまるで機械から発せられているかのように淡々とした口調だった。
「いえッ!」
バートンは山道の真ん中で急ブレーキをかけて、キクマに向き合った。
「あぶねえじゃねえかッ」
他にも続く言葉があったようだが、キクマはバートンの目を見て口をつぐんだ。
「諦めることありませんッ。まだ、諦めるには早すぎますッ」
バートンのただごとではない物の言い方に、キクマは多少なりとも驚いた。こいつが自分から、そんなことを言ったことなどなかったからだ。
「無理だとわかっていて意地張って諦めないのと、希望があるから諦めないのとでは話しが違うんだよッ」
「そんなこと僕だってわかっています。希望があるから、僕は言っているんです」
バートンがキクマを言い負かしたのは、これがはじめてかもしれない。
「警部もUB計画のことを知っていると言っていましたね」
「それがどうした」
「UB細胞。その細胞を移植された者は、獣の力と不死に近い再生能力を得るんです」
自分でも何を言い出しているのか、わからない。キクマは呆れたような、あっけにとられたような表情でバートンの話を聞いていた。
「僕の親友もモーガンさんと同じように寝たきりです。僕はそんな友人を目覚めさせてやりたいと、ずっと思っていました」
気を取り直したキクマは顔をしかめて、「何が言いたい?」と訊き返す。バートンは気を引き締めて、続けた。
「モーガンさんを目覚めさせる唯一の方法があるとすれば、獣の細胞を移植することです」
「おまえ酒でも飲んでるのか?」
「僕は至ってまともです」
キクマは慎重に言葉を探した。
「俺も昔その化け物をルベニア教会近くの森で見た。そいつは通常の弾丸では殺すことができず、傷はすぐに再生しちまう。つまり、ああいう化け物の細胞を移植するってことか」
その話を聞いて、バートンが真っ先に想い出したのは、スカラに連れられ森の中に入ったときに見た、猟師のような集団だった。だが、すぐに頭から追い出して、力ずよく言った。
「そうです」
「だが、その細胞をどう手に入れるってんだ。獣はもういないんだぞ。サエモンたちが、すべて駆逐しちまってる」
バートンは右手で自分の胸を強く叩き、言い放った。
「僕の体の中には、獣の細胞が組み込まれています。僕の細胞を使えば、今すぐにでも移植ができるんです」