file78 曇天の一日
モーガンの見舞いに行った翌日だった。
その日は朝から曇天で、薄暗い雨雲が立ち込める日だった。
今にでも雨が降りそうだが、いつまで経っても降って来ない。
雨雲は厚く空の果てまで続いている。今日は一日スッキリしない天気だろう。なんだか、気分まで滅入ってしまう。
「確かおまえ孤児だったよな」
珍しくキクマの方から話題を振って来たので、バートンは目玉が飛び出るほど驚いた。まあ、そこまでは大袈裟ではないが、驚いたのは本当だ。
「ええ、そうですよ。以前にも話しませんでしたっけ?」
「聞いた覚えはあるが、憶えてねえな」
「なら、話しましょう」
昔の出来事が次から次に蘇って来た。
いいことばかりではなく、辛い記憶も共に。
昔一度、キクマに昔話をしたことはあるが、そのときはかなり端折っていたから、いい機会だ。
「僕は幼少期のことを殆ど憶えていないんですよ。トゥールーズの街の道端で餓死寸前ですべてに絶望していたとき、通りかかった男性がパンをくれたんです。それが、本当に嬉しくて、世の中捨てたものじゃないな、って。それで、もう少し生きよう、と思い直し、色々あって、仲間たちと出会って、悪さをしましたね」
「刑務所に入れ」
キクマの返答にバートンは苦笑いを浮かべた。
「勘弁してくださいよ……。警部と僕の仲じゃないですか」
キクマが言うと冗談に聞こえないから、返す言葉に困る……。
「今でもその仲間たちとはちょくちょく会うんですよ。その仲間たちと色々な悪さをしているときです。ラッキーという男が現れて、僕たちをルベニア教会というところに紹介してくれたんです――」
しゃべっているときだった、「おい、今なんと言った?」とキクマは話しをさえぎって問うた。
「え? 何がですか?」
「今ルベニア教会って言ったか?」
「言いましたけど……それがどうしました……?」
チラチラと助手席に視線を向けて、バートンは先細る声で訊き返した。
「ルベニア教会っていったら、UB計画の研究をしていたところじゃねえのか?」
バートンはキクマの台詞を整理する。
どうして、キクマがUB計画のことを知っているのだろう、と。話した憶えはない……。なら、いったいどうして……。いや、サエモンと知り合いなのだから聞かされている、ということか。
計画のことは誰にも話すな、と釘を刺されている以上下手に話をして、広げるわけにはいかなかった。
「その話はどこで……?」
「昔、あいつから聞いた。その捜査に協力したこともある」
「そうだったんですか」
なら、大丈夫か? キクマは口が堅いし、と思ってバートンの口は紙切れよりも軽くなった。
「そうです。その実験を受けていたのが、僕です」
打ち明けても、キクマは驚いた様子はない。
「そうか。因果だな」
と言ってそれ以上、深入りはしなかった。
それからセンティアにつくまで、これと言って話すこともなかった。
「着きました」
バートンは町の共同駐車場に車を止めて、キクマに言った。
「僕の後に付いてきてください」
町の中央にある共同駐車場から、歩くこと十五分ほどの住宅街にカレンの家はあった。カレンは四十代で隠居してから、この町でずっと暮らしている。
バートンも二十代を過ぎるまでは、カレンと共にこの町で暮らしていたから土地勘はある。町は自分の庭のようなものだ。
町を歩いていると、顔見知りのおじさんやおばさんから話しかけられて、なかなか進むことができなかった。その間、あの気の短いキクマは根気強く待っている。
やっとカレンの家についたころには、歩いて十五分ほどの距離のはずが、三十分ほど経ってしまっていた。
バートンはノッカーを三回鳴らして、しばらく待つ。
だが、出てこない。
明日行くと、電話で知らせていたので、出かけてはいないと思うが?
もう一度ノッカーに手を伸ばしかけたとき、気配もなくとびらがゆっくりと開いた。
「お帰りなさい」
「あ……ただいま。かあさん」
カレンはアサシンのように気配を殺すのが上手かった。意図して気配を殺しているわけではないだろう。仕事柄、無意識に気配を殺すようになってしまったのだ。
「入って」
バートンはキクマに促して、家の中に入った。実家に帰ってくるのは久しぶりだ。もう半年くらい帰ってきていないだろう。子供とセレナはちょくちょく、会っているようだが。
リビングのソファーに座って、「かあさん、突然ごめん」とまず謝った。
「いいのよ。久しぶりに会えて嬉しいわ。それで、そちらの方がいつもあなたが話してくれる人?」
カレンはキクマに視線を向けて問うた。
「ああ、そうだよ」
バートンがうなずくと、「キクマ・ランドーズです」とキクマは頭を下げた。
「この子の義母、カレン・テイラーです。この子、どんくさいところがあるから、迷惑をかけていませんか?」
どんくさいって……バートンは苦笑する。
「ひょうきんとしていますが、使える部下ですよ。安心してください」
お世辞なのか?
キクマがお世辞を言うとは思えないから、本当か?
「そうですか。それは良かったです」
肩をなで下して、「お茶を淹れますね。少々お待ちください」とカレンは立ち上がった。
「いえ、気を使わないでください」
キクマは呼び止めたが、カレンに「淹れさせてください」と言われれば、お言葉に甘えないわけにはいかなかった。
キッチンに引っ込んでから五分後、カレンはトレイにハーブティーを載せて戻って来た。カレンは園芸が趣味で、庭でハーブや野菜などを育てている。
庭で採れたハーブを使って、昔からよくお茶を淹れてくれたものだ。
「ありがとうございます」
カレンはソファーに座り直して、「それでは、聞きたい話とはなんでしょうか?」と切り出した。
バートンは明日聞きたいことがある、とだけ話して用件までは告げていなかった。
「実はある人物の名前を知っているのなら、教えて欲しいのですよ」
「名前ですか?」
「はい。昔アリシアという女性をかくまっていたことがありましたね」
キクマは決めつけるように、言うと、「はい。アリシアさんなら知っています」と訝しむでもなく堂々とカレンは答えた。
「そのアリシアには子供がいたはずです。私たちはそのアリシアの子供の名前を知りたいのですよ――」