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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
終章 完結編 人に焦がれた獣のソナタ……
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file75 理なき世界から忘れられた者は

 暗い独房の中、名前を忘れた獣はわずかに差し込む月明りを見上げて、瞑想にふけっていた。


 頭の中で数々の想いや、記憶の断片たちが夜に煌めく星のように淡く儚く、輝いている。


 殆ど憶えていないが、ずっと昔、まだ自分が人間だったころ。このような夜空を見上げ、母と語らっていたことがあったのではないだろうか。


 あれは何歳のころの話だっただろうか。

 もうわからない。

 どうして、夜空など見たのだろうか。

 それもわからない。


 だが、楽しい、という人間的な感情を抱いたような憶えがある。自分にもそのような時期があったのだ。まだ、自分が名前を捨てるまで、自分は人間だった。


 ジョンが母に訊きたかったこと、それは自分の名前だった――。


 人間と獣を分かつ一種のラインは名前なのではないだろうか、とジョンは思う。名前は人間だけが持ち得る概念だからだ。この世の(ことわり)にはすべて名前が付いている。


 名前とは人間が創り出した、一種の秩序。

 はじめに言葉ありき、ヨハネによる福音書の冒頭に記された言葉。

 すべては言葉から生まれたという、思想。


 昔ある少女が言っていた。名前がなければ言葉もないのではないか、と。あの少女も自分と同じで、名前をもたない者だった。


 少女の言うように、この世にあるものすべてに名前が付いている。名前があるから、人間は物事を考える、思考をまとめることができるのだ。名前を持つか、持たないかは人間と獣を分かつ境界線になるのだと、ジョンは思う。


 この世に生を受けたとき、自分には人間の名前が与えられたはずなのだ。だが、獣から人間に変わる過程で、自分の名前はこの世から、世界から忘れ去られてしまった。


 神が(おさ)めし世界から零れ落ち、自分は悪魔に名前を奪われた。

 それと同時に、自分の名前はこの世から消滅してしまったのだろう。

 唯一、自分の名前を憶えている人物は、それは自分の産みの親以外には考えられなかった。


 ジョンは月明りの中、夢想にふけりながら忘れ去られた自分の名前を想った――。


  *


 キクマがジョンに会っていたとき、バートンは子供たちと楽しいときを過ごしていた。


「今度、パパと一緒に遊びに行かないか」


「どっか連れて行ってくれるのッ!」


 ケイリーはテーブルに身を乗り出し、興奮気味に言った。


「そうだよ。ケイリーとサムに会わせたい子がいるんだよ」


「会わせたい子ってだあれ?」


「ケイリーと同じくらいの年の女の子だよ。ちょっと、あの子の方が年上かな。きっと、ケイリーと気が合うと思うんだ」


「どんな子?」


「そうだな――ケイリーとは正反対の性格かな? どちらかというとサムに似ているかもしれない」


「サムに似ているならきっとあたしと気が合うと思う。どこの子なの?」


 ケイリーは一息ついて、乗り出していた身を椅子に下した。


「ランゴーニュ地方にある、ランゴーって村だよ。仕事で訪れたとき、知り合ったんだ。その村には子供がその子しかいなくてね。ケイリーとサムを紹介したいと思ったんだよ。いいかな?」


「任せてッ」


 ケイリーは鼻息荒く右手で胸を叩いて、「友達作るのは得意だから」と自信に満ちた声で誇らしげに答えた。


「頼もしいな。サムもいいかい?」


 バートンは仏頂面で黙りこくっているサムに問うた。

 この子は人と関わるのが得意ではないようだから、もし嫌だと言うなら無理には誘わないつもりだ。


「ぼくも構わないよ」


「そうか、じゃあ、今度暇ができたときに一緒に行こうか。あの辺りは景色もきれいだから、いいドライブになるよ」


「今度っていつ?」


「そうだな~、今ちょっと警部の事情に付き合っているからな」


「あのおっちゃん人使いが荒いよね~」


 バートンはケイリーの発言にドキリとした。

 たまにキクマを家に招き食事をすることがあり、子供たちはキクマのことをよく知っている。あの顔なので初めて会ったときは、二人とも泣き出してしまったが、何度か会う内に子供たちも慣れ今では良きおっちゃんだった。


 あの顔なので誤解されがちだが、キクマは子供が嫌いなわけではない。

 本人はガキは嫌いだ、と言っているが、嘘であるとわかる。

 二人の相手をしているときのキクマは、祖父のようなやさしい表情をしているからだ。


 しつけには厳しいところがあるが、それも一種の愛情表現なのだと思う。もし、キクマに子供がいればきっとしっかりした人間に成長していたんだろうな、なんて考えもする。


「その話、おっちゃんの前ではするなよ」


 一応釘を刺すと、「あたしもそこまで馬鹿じゃないって」とケイリー心外そうに頬を膨らませた。


 その姿にバートンは笑いを堪えることができずに、吹き出したのだった――。


  *


 開け放たれたウインドウから新鮮な空気が流れ込み、太陽に温められた草木たちの光合成で発生する青臭い匂いを漂わせていた。


 トゥールーズから、ロデズという町に行くにはいくつかの山道を越えるのが一番の近道だった。凹凸の激しい山道を進みながら、バートンは窓から左腕を投げ出し風を切る。


 開けた樹間の間から、何か動物が覗いていそうでバートンは、原始的な潜在意識から来る恐怖を感じていた。


 山道を通るといつも感じる。

 どれだけ人間は進化しようとも、原始的な感情を失くしたわけではない。その証拠に夜を恐れ、わからない(ことわり)に恐怖する。視界の開けない山道を走ることは、常に恐怖が付きまとうことなのだ。


「地図ではそろそろだと思うんですがね」


 バートンはウインドウの方を向き、流れる樹々を眺めていたキクマに言った。ウインドウに反射したキクマの視界が、一瞬バートンの方を向き、「この山を越えたら見えるだろう」と素っ気なく答えた。


 キクマの言ったことは正しく、山を越えて数分も走らない内にロデズという町が見えてきた。


 バートンはそのまま車を走らせて、ロデズの西門から町に入り速度を落としてヴァネッサから教えてもらった病院を探した。


 アスファルトで舗装された町の大通りを抜けて、中央にやってくると、歩道に建てられた掲示板に病院のある方角が矢印で記されているのを見つけ、バートンはハンドルを切る。


 町の中央から車を走らせること五分ほどの距離に、町に唯一の聖マリア病院を発見した。バートンは駐車場に車を止めて、マリア病院を見上げる。


 ここにモーガンさんが、いや名前をもたない獣の母アリシアがいる――。

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