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人に焦がれた獣のソナタ……  作者: 物部がたり
第一章 事件編 人と獣は交われない  
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file27 『死の覚悟』

 私はウサギを抱いたまま、あることに気付く。

 それは、自分の心と、思考と、正義と、罪と、肉。

 そう、私は気付いた、人間が食べている肉は動物たちの肉なのだ、と。


 空腹は限界上回り、もう空腹感すら感じない。

 私が生き残るには何かを食べるしかない。

 左に転がるナイフ。固唾を飲む、音。

 ウサギの鼻をひくつかせる、音。小さなウサギの鼓動。私の鼓動。息があがる、鼓動が早くなる。

 どうして、ためらっているんだろう。

 あいつたちを殺すときは、ためらいはしなかった。

 

 しかし、こんな小さな生き物を殺すことをためらっている。

 私の懐でもぞもぞ、と動くウサギ。このウサギはあいつたちと違って、なんの罪も犯していないではないか。罪を犯していない、命を奪う。

 私にはできない、私にはできない。私は泣いていた。大粒の涙を流していた。

 枯れたかと思った、眼から涙が流れる。いったい、どこにこんな水分が残っていたのだろう。

「わたしを食べて」

 そのときどこからともなく、声が聞こえた。

「ためらわないで、わたしはあなたに食べられるために、生まれてきたの」

 そうか、この声はこのウサギが発している言葉なのだと気づいた。

 私が食べる。私はもうためらわない、左手にナイフをにぎり、苦しまないようにウサギのか細い首を切り落とす。

 瞬間の出来事。毛に刃先がふれ、直後肉に食い込む刃。

 鳴くことがないウサギ。ナイフが骨を砕き、脊椎を断った。肉を切り裂く、鈍い感触がナイフのグリップに伝わる。

 直後、ウサギの首が膝に落ち、血が噴き出し、白かったウサギの毛を真っ赤に染めた。感謝します。感謝します。感謝します。私はウサギに感謝した。

 シェパードは森の中を突き進む。

 さっきも進んだ、獣道。朝露はもう消え、代わりにじめっとした空気が濃く粘っていた。


 太陽が地面まで届かないせいか、苔が生え、靴の裏からモフモフした感触が伝わる。そんな苔の絨毯を、シェパードは鼻を触れんばかりに、嗅ぎ、前進する。


「やっぱり、イスカちゃんは森に入ったみたいですね」


 バートンはシェパードを見たまま、後ろからのらりくらり付いて来る、キクマに言う。


 キクマも五十を過ぎた初老といっていい歳だ、今日二回も森を歩く羽目になりさすがに疲れているのだろう。


「子供ってやつは何で一人で、森に入ったりするんだ」


 そう愚痴をいう、キクマの声は心なしかいつもの覇気がなく、疲労の色が読み取れる。


「大人は頼りにならない、自分が何とかするしかない、と思ったんでしょうね……」


「へッ、子供の方が何もできねぇーじゃねーか」


 皮肉りに、キクマは言う。


「いや、大人にはできないけど、子供にできることって案外あると思いますよ」


 反論するバートン。


「何ができるってんだ?」


 バートンがいった言葉にキクマはすかさず反論する。

 かなり、気が立っている証拠だ。


「そういう風に物事をとらえるから、ダメなんですよ。警部ももっと寛大に受け入れてください」


 唇を突き出して、バートンは、「――大人になってしまったら、失うものがあるんです。子供は大人が失ったものを持ってるんですから。

 勇気や、優しさ、行動力、大人になるとなくなるんです。子供の時は何も知らなくて、怖いもの知らずだったけど、大きくなるにつれ色んな事を知っちゃって、怖くなるんですよ。世界は知れば知るほど、臆病になるんです」とまるで、自分に言い聞かせているようでもあった。


「成長すると、気づかいや人間関係で揉まれて子供のときに持っていた人間を人間たらしめる、大切な気持ちなんか忘れてしまうんです」


 バートンはしんみりといった。


「知ったような口きくじゃねえか。子供は穢れのない、綺麗な心を持ってるってか。俺は大人より子供の方が怖いがな。

 善悪の判断がおぼろげな年ごろの子供は、大人以上にたちが悪い。人間の本当の姿だぜ。人間は成長するにしたがい、理性を持ってこの世の秩序(ルール)自分(にんげん)をコントロールできるようになるんだ。

 だから、秩序(ルール)を知らないガキの中には狂暴な奴もいるじゃねーかぁ。あれが人間の真の姿だってことだよ」


 キクマのいうことにも一理ある、と思うバートン。

 自分が昔であった、子供の中には救いようのない悪もいた。

 けれど、みんながみんなそんな子供ばかりではないと、ある人が教えてくれたのだ。


「それとこれとどう関係あるんだよ」


 と、話が反れていることに気付き、キクマはバートンに問う。

 鬱蒼とした森の中にはシェパードの呼吸音と、二人の会話だけが消えていく。


「あの子は自分の力でどうにかできるって、考えたんですよ。大人になれば、自分の力でどうにもならないことがあることを悟りますが、あの子はまだ小さい。

 怖いもの知らずですからね。つまり僕が言いたかったのは、自分の力でサエモンを止めようとした、ってことです」


「あんな子供にサエモンが止められたら、俺は苦労してねえよ。つくづく子供ってのは厄介なものだな」


 キクマは心の底からの本心を吐露した。

 森を進み初めて、一時間近くが経過した。体感的には相当歩いたつもりでも、山や森の道とは自分が思ったほど進んでいないものなのだ。

 

 もう、何キロ歩いただろうか、自分では分からない。それから十分ほど進んだとき、樹々が開けた場所に行き付いた。


 前方を進んでいた、シェパードが今までにない、勢いで地面のにおいを嗅ぎだした。すると、イスカのにおいを察知したのか急に吠えはじめる。

 

 気が狂ったようだ、とはこのシェパードのためにあるような表現だと思えるほど、激しく吠えている。二人はその方向を見た。樹々のすき間で何かが動く。草が揺れる、風のような音が聞こえた。


 いや、イスカではない、もっと別の何かいる。

 それも、一匹ではない、何匹も、いる。重い雷鳴のような唸り声が聞こえて来た。シェパードのものではない、もっと重々しい唸り声だった。

 

 バートンの背中から冷たい脂汗が噴き出す。


 後ろから、「ゆっくり下がれ……」と、緊張したキクマの声が聞こえた。


 バートンはゆっくりと後下がりするが、シェパードは突っ張ったまま動いてくれない。ふと、前方に目を向けると、すぐ目の前に犬があらわれたことに気付いた。


 いや、よく見ると犬など比べ物にならない、くらい大きい。

 黄色く輝く瞳は、月光のように引き寄せられる力が宿っており、風がなびくたびに、キラキラと毛先が光る。


 大きな体からは殺意のオーラがかもし出されていた。

 ――狼だ。黄色く光る鋭い眼光が、薄暗い森の中に無数に漂っている。気付いたときには囲われていた。狼の狩り。


「おい……動くな……」


 後ろから緊迫したキクマの声が聞こえた。

 後ろも囲まれている、ということ、だ。


 目で確認できるだけで、前方に五匹、いや隠れている狼も数えたらもっといるかも知れない。


 首を少し回転させて、後ろに視線を向けた。黄色い両眼が樹々の間からヒリヒリする視線を送ってくる。こっから少しでも動いたら、襲い掛かってきそうな、視線を感じた。


 ゆっくりと、近づいて来る、足音が聞こえる。シェパードはもう戦意を喪失して、伏せた。闘う意思がない犬は、「これ以上あらがいません」という意思表示で伏せをすると聞いたことがある。


 そんな、生ぬるいことが通用する相手だと良いのだが。

 草を揺らす足音が段々と大きくなった。


 ここでおしまいなのか、どうして、この森の狼は人間を襲わないという性善説を信じてしまったのか。


 バートンは深く後悔した。後悔先に立たず、いま後悔したところでもう遅いではないか。

 

 家族の顔が頭に浮かぶ。

 この現象を走馬灯、と呼ぶのだろう。不思議と鼻の奥が痛くなり、涙が浮いて来る。

 

 大の大人が情けない限りだ。研ぎ澄まされた聴覚に、重々しい足音と共に、すすり泣くようなか細い音が聞こえてきたのはそのときだ。


 どこから聞こえてくる、バートンは眼球だけを動かして、狼の後方に目を走らせた。狼が牙をむき、唸る。満月のような眼光がゴルゴンのような魔力を放ちバートンとキクマを睨む。


 体が固まり、動かない、目だけを動かし懸命に周辺を見渡す。前方の狼の横樹に何かが見えた。膝を抱え、震えている、人間のようなシルエットはイスカだった――。

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