file74 獣は願い――
その日、キクマは再びジョンの下を訪れていた。
時刻は夕暮れ過ぎ、面会時間は三十分だった。
看守に縄を引かれながら現れたジョンは、平然としていた。
鉄格子の向こう側に組み立てられた、ちゃちゃなパイプ椅子に座り、ジョンはキクマと向かい合い、「どうですか、調査のほどは?」とあいさつ代わりに訊ねてきた。
「見つかった」
その言葉を聞いて仮面のように微動だにしなかったジョンの顔が一瞬、時間にしてわずか瞬きをするほどの間だが、驚きに歪んだように見えた。
「早いですね。やはりあなたは優秀だ。私が見込んだだけのことはありますね」
ジョンは上か目線の態度であったが、キクマの気分を害するほどではなかった。
「知りたいか?」
キクマは強力なカードを手中に収めている。
これで、立場は対等。
「そのためにお願いしたのですからね」
「それじゃあ、キクナの墓の場所を先に言え」
「私が先に教えて、あなたは教えてくれる保証はありますか? ただでさえ、嫌われているというのに」
「ああ、神に誓って教えてやるよ」
キクマは聖書に手を添えるかのようにジェスチャーをして、右手で左胸に手を添え誓った。嘘なら自分の心臓を捧げるという意味が込められていた。
「おまえはどうなんだ?」
「もし、本当に私が捜していた女なら、神に誓ってお教えしましょう」
ジョンは手錠の鎖を鳴らし、キクマと同じように左胸に右手を添えた。
「それでは、教えてください」
キクマはジョンの目を睨みつけるように見て、「おまえも知っている人物だ」とじらすように口にした。
「私の知っている人物?」
表情を変えることなく、ジョンは声音をクエスチョン調にして反復する。キクマは前置き抜きに、そのまま切り出した。
「モーガンだ」
今度ばかりは明らかにジョンの顔に変化が見えた。
眉間に皺を寄せて、疑いを含んだ表情だ。
「モーガンさん、ですか?」
「デモンって犬を飼っているあの老女だよ。おまえも知ってんだろうが」
ジョンはキクマの目を見つめて、「私をからかっているのですか?」と少々苛立ちを含んだ声で訊き返した。
「信じなくてもいいが、俺たちがアリシアの足取りを追ってたどり着いた人物だ」
「アリシア……」
ジョンはアリシアと言う名前に反応を示した。
自分の母の名前を忘れていたのだろう。
だから、女としかキクマに伝えることができなかった。
「ああ、アリシアだ。おまえのお袋の名前だ」
「アリシア……そうか、彼女はアリシアという名前でしたね。そうです……アリシアです……」
ジョンの顔がわずかだが、悲しみに歪んだように見えた。
自分の親の名前を忘れるなどということがあるのだろうか? と思ったが、実際に今、目の前にいる人物は忘れていたのだ。そして、今想い出した。
「次はおまえだ。教えろ」
キクマは平常心を装っていたが、気持ちは急いていた。
死んでしまっているのはわかっているが、妹の墓は存在するということはわかった。
死後の世界など信じていない。だが、どうしても墓参りをしたかった。自分の罪悪感を軽減させるという、不純な動機だとしても墓参りがしたかったのだ。
「モーガンさんが私の母だという根拠は?」
キクマは一瞬ジョンが何を言っているのか理解できなかった。
「は? 根拠って何だよ? 約束が違うじゃねえか」
冷や汗がこめかみに浮かび、流れ落ちる。
どう証拠を提示しろ、というのだろう?
モーガンは倒れて……意識不明だというというのに……。
「モーガンがアリシアさんだ言う根拠です。本当に私の捜している女性かどうか判然としないのであれば、私も答えることはできません」
言い返したかったが、確かに……証拠など持っていなかった。
モーガンが本当にアリシアと同一人物だという、確認を取ったわけでもない。確認など取れないかもしれない……。
「約束が違うんじゃねえか?」
「私が捜している人物なら、教えると言ったのです。本当に、その人物が私の捜している人だという証拠を見せてもらわなければ、条件に合いません」
「どう、照明しろって言うんだ?」
ジョンは涼しく微笑んだ。
「あなたのいうことだ。信じないわけではありません。それどころか、あなたの言うことなのだから、間違いないとすら思っている。ですが、実際に逢って自分で確かめたいのです」
「えらく俺のことを買ってくれてるじゃねえか?」
「あなたのことなら、よく知っているので。子供のときのことから、あなたの性格まで」
「逢わせてやってもいいが、ばあさんは今入院中なんだ」
「入院されたのですか。ご容体は?」
ここで、正直に答えていいものだろうか?
考えた結果、キクマあモーガンが意識不明かもしれないことを伏せることにした。
「わからない。まだ見舞いに行っていないからな」
「なぜ、入院されたのですか?」
「聞いた話では、倒れていたそうだ。それ以上のことは知らねえよ」
「そうですか」
ジョンは他人事のように相づちを打つだけだった。
背後の壁際に座っていた看守が、袖をめくり腕時計を確認して立ち上がった。
「そろそろ、時間です」
キクマは舌打ちをして、「わかった」と自身も席を立ち、去り際に問うた。
「逢ったらどうする?」
ジョンは時間にしてわずか二秒ほど押し黙り、引き結ばれていた口を重々しく開いた。
「もし、再び逢えたなら、話がしたい。そして、彼女に訊きたいことがある。私の名を――。この世から忘れ去られた、私の名を知りたい」
キクマはジョンの目を、真っすぐに見すえて答えた。
「わかった。逢わせてやるよ。そのときには、何があろうと教えろよ」
「誓いましょう。必ず」
ジョンの目に嘘の色は見えない。
あのばあさん死んでねえだろうな、とキクマは危惧しながらエレベーターに消えた――。