file68 明るく、ちょっと抜けた人
大家はテーブルの上に冊子を置いて、開いて見せた。
かつてこのアパートに住居していた人物の名前が綺麗に記されている。
大家は一つ一つ名前を指で追いながら、ページをめくっていった。
ページをめくる乾いた音が、室内に響く唯一の雑音。
冊子の後半に差し掛かっても、同居人の名前はでない。
「おかしいですね……。この冊子だと思うのですが……」
大家の声にも迷いが滲みはじめた。冊子のページが最後の二ページになったとき大家の指はピタリと止まった。
「ありましたッ!」
大家は冊子をキクマとバートンの方に向けて、「この方で間違いありません」と差し出した。
バートンは冊子を受け取って、大家が指さした名前を見た。
記された名前を見て、バートン目を疑った……。自分の視覚が誤った情報を脳に送っているのだろうか? そう考えたバートンは一度目を閉じて、数秒だけ精神統一を試みた。
目を開きもう一度名前の記載を見たが、やはり間違いない。バートンはキクマに冊子を渡し、様子をうかがった。キクマは微々たりとも表情を変えずに、冊子を大家に返した。
「その人で間違いないんですね」
キクマが改めて訊ねると、「間違いありません」と大家は答えた。
「名前しかわからなくて、申し訳ありません」
「いえ、とてもいい手がかりです。ありがとうございました」
キクマはそう言って、バートンに目配らせをした。
「それでは、我々はこれで失礼します」
二人の気は急いていた。少しでも早くこれが事実なのかを確かめたいと、急いていた。大家が探し出した冊子に書かれていた名前とは、二人がよく知る人物のものだった。
ある事件で知り合った、明るく、少し抜けた、場の空気を和ませる女性。その女性の名前とは蝶々を意味する、ヴァネッサ。
冊子にはヴァネッサ・ビルマと書かれていた。
同姓同名の人物の可能性もあるが、確かめてみる価値はある。確かめなければならないだろう。大家の見立てでは、二十代後半ほどの見た目だったという。
その年ならジンバと結婚していてもおかしくない。バートンの見立てでは、二十代以上歳が離れていると見た。
当時ジンバは四十代後半くらいだとして、おかしくない考えだ。
だが、なぜこの町のアパートで暮らしていたのか?
推測でしかないが、ジンバと喧嘩したか? いや、ジンバは刑事をしていたと言っていた。家を留守にすることが多かっただろう。
つまりヴァネッサは自由だった。
別に亭主の帰りを待ち家にいる必要もなかったのだ。
「どうしますか、警部。今から向かったとしても、日が暮れますよ」
「明日でいい。今日みたいに遅刻すんなよ」
「明日ですか?」
「何だよ。都合でも悪いのか?」
バートンは一瞬考えて、話すことにした。
「明日サエモンさんに会いに行こうと思って」
キクマは不審に顔をしかめて、「何であいつに会いに行くんだよ」とまるで責めるように問い詰めてくる。
「ちょっと、聞きたいことがあるんですよ。いちいち警部に報告する義務もないでしょ」
キクマはフッと鼻を鳴らして、背中を向けた。
車を止めた北門まで歩くのはさすがに骨が折れた。今日一日で、町を踏破したことになる。やっと車にたどり着いたときには、クタクタで運転する気力を失くしていた。
だが、早く帰って子供たちに会いたい、という気持ちがバートンの気力を振り絞る。キクマを家まで送り届けて、バートンの長い一日はやっと終わった。
いつものように玄関を開けると、ケイリーとサムが犬のように出迎える。
「おかえりッー!」
ケイリーは言いながら、バートンに抱きついた。
続けざまにサムも、「おかえり」と控えめに言ってバートンに抱っこをねだる。
「今日はケイリーにいじめられなかったか?」
バートンはサムを抱き上げながら訊ねると、「酷い~。可愛がりはしても、弟をいじめるわけないじゃない」とケイリーは頬を赤く膨らませて抗議した。
「どうだった、サム?」
「今日はいじめられてない」
「そうか」
サムとケイリーを地面に下して、目の前に立つセレナにバートンは視線をやった。
「あなた、おかえりなさい」
「ただいま」
「ご飯できてるけど、先にシャワー浴びる?」
「いや、先にご飯を食べるよ」
バートンはリビングに入り、スーツをハンガーにかけた。
これを脱ぐとやっと、仕事から解放された清々しい気持ちになれる。
「学校はどうだった?」
バートンはご飯を待つ間、子供二人に訊ねた。
「今日は算数と歴史がよくできたと思うの」
ケイリーは誇らしげに、語気を荒らげて答えた。
「僕は勉強全般ダメだったけど、特に算数や数学はからっきしだったな。エレナばあちゃんに、面目が立たなかったよ。ケイリーは凄いな」
子供を褒めるような口調ではなく、目上の者に敬意を示すときのような口調でバートンはいった。
「サムはどうだった?」
「ぼくも……算数嫌い……」
「そうか、パパと同じだな。まあ、嫌いな部門は誰にでもあるさ。サムは何が一番得意なんだ?」
「国語。ぼく本を読むのが好きだから」
「本はいいぞ。たくさん読め。欲しい本があったらパパが何冊でも買ってやる」
バートンは胸を叩いて答えたとき、「盛り上がってるわね」とセレナが料理を運んできた。
ラム肉を赤ワインとバターで焼き、ハーブと塩コショウで味を調えたメインと、クルトンが入ったコーンスープとパスタだった。
「ありがとう。みんなはもう食べたのか?」
「ええ、今さっき食べたところ」
「もう少し早く帰って来られれば、みんなと食べられたのにな……」
バートンは心の底から後悔した。あのとき車をもう少し飛ばしていれば……。そんな魔が差したが、安全運転が一番だと、思い直す。
*
食事を終え、シャワーを浴びて気を引き締めた。
バートンは電話の前に立ち、電話局を中継して、ある人物の番号に繋げてもらった。コール四回目で電話は繋がった。
『はい』
「あ、突然すいません」
『あなたですか。どうしました。そちらからかけてくるなど珍しいですね』
「ちょっと、話したいことがあって」
『何ですか?』
バートンはこの期に及んで言いよどんだ。
だが、口ごもっていると電話を切られてしまう恐れがある。
「電話では言いづらいことなので、明日直接会ってもらえますか?」
『明日は用事があるります。電話では言えないのですか?』
「言えないことはありませんが……」
『なら言ってください』
「言っても怒らないでちゃんと最後まで話を聞いてくださいますね……」
『怒られるような話しなんですか?』
「きっと、怒ると思います……。だから、直接会って話したいんです。直接話さないと、僕の気持ちは伝わらないと思うので」
『気持ちの悪いことを言わないでください』
電話越しにサエモンが受話器から耳をそらしたのが手に取るようにわかった。
『わかりました。怒りません。だから話してください』
「わかりました」
言ってバートンは深呼吸をニ三度して、意を決した。
「ミロルのことでです――」
受話器越しから伝わる空気とも言えない、気配が引き締められた――。