file67 たらい回しの結末
「アリシアさんは不思議な方でした。ある日、どこからともなく現れて、この町に住み着いたんです。小さな町ですから、色々な憶測が囁かれました。
そんなある日、アリシアさんは私の経営するここで働きたいと訊ねてきたのです。当時はこのパン屋をはじめたばかりで、従業員が欲しいと思っていたところたっだので二つ返事で私は受けました」
アリシアはこのパン屋で一生懸命に働いたという。前の街でもそうだったが、仕事熱心なアリシアはみんなから人気があったようだ。
だからなのか、良く想わない人もいただろう……。
「アリシアさんは私に色々なことを話してくれました。どのような事情なのかまでは聞きませんでしたが、刑務所に入っていたこと。子供が預けていた施設からいなくなったこと。いなくなった子供を捜していること」
アリシアがこのパン屋で働きはじめて半年が過ぎたころだったという。
その刑務所に入っていた、という噂が誇張されて、いや誇張ではないのだが、悪いように町中に広まり世間のアリシアを見る目が変わったという。
人間というものは移り気激しいもので、一分前まではいい人だと噂していても、一分後には悪い人だという烙印を押す。
人間は集団生活する生き物だから、良いことでも、悪いことでも、人に流されるように同調する。差別でも、いじめでも同じこと。
「アリシアさんはそのことをみんなに話していたんですか?」
そのことと抽象的に問うたが、婦人は理解している。
「いえ、みんながみんなには話していないと思います。ごく少数の親しい人には話していたんじゃないでしょうか」
「つまり、その親しい人の誰かが、アリシアさんの噂を町中に広げたと?」
婦人の表情がわずかに痙攣をおこしている。
口角がピクピクと、ストレスを感じると起こるサインなのだろうか。
「いえ、きっとその人も広げるつもりはなかったと思いますよ。なんせ狭い町ですから、些細な噂が数時間後には町中に広まっちゃうんです……」
これはバートンの予測でしかないが、アリシアの噂を広めたのはこの婦人なのだと思う。本人が言うように悪気があったわけではない。
伝言ゲームのように、少しずつ誇張や矛盾を含んで、語られて行っただけのこと。
今さっきアリシアの話をポロリとしゃべってしまったときのように、無意識に口をついて出てしまったのだろう。自身も知らない内に、噂を広めてしまった可能性がある。
「ではアリシアさんと親しくしていた人はご存じでしょうか? できれば、教えてもらいたいのですが」
「アリシアさんは確か20くらい歳の離れた人と、同居していたはずですよ。名前は……ごめんなさい想い出せません。アリシアさんが入居していたアパートがまだ残っているので、そこの大家さんなら何か知っているかもしれません」
「そのアパートはどこに?」
「この町の外れにあります。地図を書きますよ」
「お願いします」
婦人は丁度テーブルの上に置いていた紙とペンを引っ張り出して、綺麗な線を書き始めた。
「ここが、このパン屋です。ここを出て、左に曲がってください。二つ目の曲がり角を左に曲がると小さな広場があります。その広場が、この町に唯一ある広場です。四方に道が分かれているので、それを東側に進んで行くと、東門が見えてきます。その東門の方に進んで、ここです。ハミルトンのアパートメントと言います」
婦人は言って、地図の一点に〇をつけた。
東門からかけて、正方形が三つ書かれている。その三つ目に〇をつけられているところを見ると、そこが婦人のいうアパートなのだろう。
「ありがとうございます。早速訊ねてみます」
「はい」
キクマは早くも立ち上がり、バートンを見下していた。
「それでは、行きますね。色々教えてくださり、ありがとうございました」
バートンが立ち上がると同時に、来客を知らせる鈴の音が店内に鳴り響いた。店の奥から現れた、人相の悪いキクマを見て来店した客は顔を恐怖に引きつらせて固まる。
また変な噂が広まらないといいのだが、と思ったバートンであった。
*
二人は婦人に教えられた通に地図を辿り、東門までやって来た。パン屋から時間にして徒歩十分ほどの距離。
東門から数えて三つ目の建物。
きっと、ここだろう。二階建ての赤レンガ造りだ。二階のバルコニーには花が飾られ、小さな階段を二段上がった先に玄関のとびらがある。赤茶色の重厚感のあるとびらにはハミルトンのアパートメントと、札が掛かっていた。
きっと、ここで間違いないだろう。
バートンは二段階段を上がり、とびらをノックした。しばらく待てど返事がないので、ノブを捻ると容易に開いた。年季の入った内装で、床など歩くたびにギシギシ軋む。
「あのッー! 大家さんはいますかッー!」
アパートの通路にバートンの声が何度も反響して、ゆっくりと吸い込まれた。もう一度空気を大きく吸い、肺を膨らませたとき「はい、何かようですか?」と一番手前の一室から男性が顔を出した。
「あ、このアパートの大家さんですか?」
「はい、そうですが……あなたは?」
「僕たちはこういうものでして、ちょっと聞きたい話があってお訊ねさせていただいた次第です」
バートンは話を聞くときにいつも取り出す手帳を大家に見せて、丁寧に懐にしまった。この手帳さへ使えば、大抵の人は信じてくれる。職権乱用し放題だ。
「刑事さんですか……。どうされたのです……?」
「このアパートにアリシア・ケイトという女性が入居していたと聞いたのですが」
アリシアの名前を出すとこの町の人間は皆顔を引きつらせる。
大家も同様だった。
「アリシアさんですか……アリシアさんがどうかされました?」
「アリシアさんを捜しているんですよ。今生きているのなら、七十歳以上のご高齢だと思うのですが」
「そうですね……。それくらいにはなるでしょうか」
と、バートンと入り口に立ち尽くしているキクマを一瞥して、「ここで話すのも何なので、お入りください」と自分の部屋のとびらを開けた。
綺麗に整理整頓された部屋だった。入ってすぐにキッチンがあり、そのキッチンを通ってリビングに入る仕様になっている。
日当たりもよく部屋の奥から見える窓からは、温かな光がリビング中に行きわたっていた。大きな二人掛けのソファーが対照的に、部屋の両側に置かれ大家は、「そちら側に座ってください。今お茶を淹れます」と自身はキッチンで湯を沸かしはじめた。
バートンとキクマは遠慮なく、ソファーに腰を下して注意深く室内を見まわした。
三分もしないうちに、大家はティーポットを載せたトレイを持ってリビングに現れると、キクマとバートンの前にカップを置いた。一分ほど茶葉を蒸らしてから、紅茶を注ぐ。
「熱いので、お気を付けください」
「ありがとうございます」
キクマとバートンは同時に頭を下げて、お礼を言った。
「それで、アリシアさんのことでしたね。どうしてまた、アリシアさんを捜しているんですか?」
「ああ、アリシアさんの息子さんが、捜しているんです。ある事情があり、生き別れになってしまって、もう四十年以上別れ別れです。それを僕たちが手伝っているというわけでして」
「そうでしたか。確か、息子さんがいると言っていましたね。深くは聞いていないので、そのような理由があったとは知りませんでした。それで、アリシアさんの足取りを追って、ここまでたどり着いたと」
「その通りです。話が早くて助かります。アリシアさんはここに住んでいたと聞きました。最後出て行くとき、どこか行先を聞いていないかと、思いまして」
「お役に立てなくて申し訳ないです……。アリシアさんの行先は知りません……」
ここで、手がかりは途絶えてしまうのか……?
いや、まだ終わったわけではない。
「アリシアさんと一緒に同居していた方がいると聞いたのですが」
「ああ、はい。二十代後半ほどの女性と同居していましたね。とても明るくて、ちょっと抜けているところがありましたが、みんなから好かれる方でした」
「その、一緒に同居されていた方は今どこに?」
「申し訳ありません……知らないのです……。だけど、名前ならわかるかもしれません。帳簿がまだ残っているかも。ちょっと、お時間をいただいてよろしいでしょうか。帳簿を調べてみます」
「ありがとうございます。本当に助かります」
大家は家の棚と言う棚を引っ張り出して、一冊の古びた冊子を探し出した――。