file66 拡散する噂
「アリシアを知っているのか」
女主人は方眉を歪めて、「ああ、一応ね」と答えた。
「アリシアさんに何かあったんですか? 役所の人もアリシアさんの名前を出した途端にあなたみたいな顔をされるので」
バートンが探るように問うと、「まあ、狭い町だからね。悪く想わないでおくれよ」と弁護した。
「アリシアさんに何があったんですか? 僕たちはアリシアさんの息子さんの依頼で、アリシアさんを捜しているんです。お願いします。アリシアさんのことを話してくれませんか」
バートンがいうと短くも長くもない絶妙な間が空き、女主人は口を開いた。
「アリシアさんはこの町の人たちに追い出されたんだ」
「追い出された?」
「ああ、あれはそうだね。あれはもう二十年くらい前のことだね。ある日、アリシアさんはひょっこりこの町に現れたんだ。狭い町だから、その噂はすぐに広まってね。町中大騒ぎだったよ。アリシアさんはこの町で約半年間だけ暮らした」
「たった、半年ですか?」
「ああ、ある噂が広まってアリシアさんはこの町に住めなくなったんだ」
「その噂とは?」
女主人は顔を歪めて、「アリシアさんが殺人犯だっていう噂だよ」と淡々と答えた。
「嘘か誠かは定かではない。誰がそんな噂を流したのかもわからない。けれど、誠しやかにそんな噂がこの町に広まったのさ。アリシアさん本人も否定しなかったから余計に噂は悪化した」
どうしてそんな噂が広まったのか? 誰かがアリシアの素性を探ったとしても、そこまでわかるものだろうか? 考えられる可能性はアリシア本人が話したとしか考えられなかった。
「その後アリシアさんはどうされたんですか? この町を出て行先は聞いていますか?」
「わからない。そんなに話したことないから。どこか影のある人だったけど、いい人だったよ。あの人が人を殺したなんて信じられないね。誰がそんなほら話を流したんだか」
女主人は苛立ちを声音に含ませて、誰にいうでもなく噂を流した正体不明の誰かに言った。
素性の知れない、人物が突然現れたのだから。閉鎖的な町では仕方のないことなのかもしれない。
「アリシアはこの町にいた半年間何か仕事をしていたのか?」
「ああ、この町にあるパン屋で働いていたよ。熱心に働くんで評判だったんだけどね」
「そのパン屋は今もあるのか?」
「ここから少し歩いたところにあるよ。すぐ近くだ。ちょっと待ってちょうだい」
言って女主人はカウンターの下から、紙とペンを取り出して地図を走り書きした。
「ここが店で、ここの交差点を左に曲がりな」
女主人はペンを指示棒代わりにして、地図の上をなぞった。この店を出て左に進み最初の曲がり角を左に曲がった先に、女主人のいうパン屋があるそうだ。
「そこのおかみさんに、話を聞いたら何かわかるかもしれないよ」
「ありがとう。早速行ってみる」
キクマは地図を受け取り、立ち上がった。
「ああ、アリシアさんが見つかるといいね」
「必ず見つけてみせる。例え死んでいようとな」
キクマの後に続きバートンも店を後にした。
地図を書いてもらうまでもなく、パン屋はすぐに見つかった。大きなガラスウインドウからは、店中に並ぶパンが一望できる。
店の外にいてもかぐわしい香りが漂ってきそうで、セイレーンの歌声のように通りかかる人々を店内に招き寄せる。
チャランチャランという甲高い鈴の音と共に、二人のマフィアのような男、キクマとバートンは来店した。
「いらっしゃいませ」
と店の奥から出てきた五十代ほどに見える婦人は、二人を見るなり顔をこわばらせた。当然の態度と言ってもいい。
堅気の者とは思えない人相をした男が一人いるのだから。
当然の反応といっていい、いつものようにバートンは心の中でうなずく。
「突然お邪魔してすいません」
キクマを押しのけてバートンが切り出した。
「え、いえ、いいんですよ。ごゆっくり見て行ってください」
婦人の警戒は緩んだ。
「あ、いえ、僕たちは客じゃないんです。ちょっと、聞きたい話があって」
一瞬緩んだ婦人の顔は再びこわばってしまった。相手を警戒させないように、それはまるで野良猫を慣れさせようとするかの如く、バートン続ける。
「僕たちはこういうものです」
バートンは決まりきったいつもの動作で、懐から手帳を取り出して婦人にかざして見せた。
「本物ですか……」
疑っているのではなく、ぽろっと口から驚きがこぼれたような口調だった。
「はい、本物です。聞きたい話があって来たのですが、よろしいでしょうか?」
婦人は着ていたエプロンの前掛けを握りしめていた。
「ええ……どのような話でしょうか? できる限り協力させていただきますが……」
「ありがとうございます」
バートンが頭を下げると、「ここで、話をするのも何なので、奥にどうぞ」と婦人は店の奥に見えるキッチンを指示した。
キッチンでは旦那さんなのか? 同じく五十代半ばほどに見える男の人がパン生地をオーブンに入れている最中だった。
突然入ってきたマフィア二人に驚いて、男は目を見開くと、婦人はそそくさと歩み寄って男に耳打ちをした。訝しみながらも、男はたくさんのパンを並べた板をオーブンに入れる作業に戻った。
キッチンの片隅に、小さなテーブルと椅子が置かれ、休憩スペースが確保されている。キクマとバートンはその椅子に座るように促された。
「どのような話でしょうか?」
二人はアイコンタクトを取り、切り出す。
「アリシア・ケイトさんという女性がここで働いていたと聞いたのですが」
この町の人皆がアリシアの話をすると顔を曇らせるように、婦人も同様に顔を曇らせた。
「アリシアさんはここで働いていたんですよね?」
「……はい……働いていましたがどうしてそのことを?」
「僕たちはアリシアさんを捜しているんです。アリシアさんの痕跡を追っている内に、ここに行きついたというわけでして。ある事情で、生き別れになってしまった息子さんが、アリシアさんを捜しているのです」
婦人の目が揺らいだのをバートンは見逃さなかった。
「そうですか……息子さんが捜しているんですね……。よかった……よかった」
噛みしめるような口調で言いながら、婦人は顔を伏せた。
「アリシアさん、よく息子さんのことを話してくれたんです。自分が刑務所に入っている間に預けていた施設からいなくなってしまったんだと……」
そこまで言って、婦人は口を両手で塞いだ。
アリシアは自分が刑務所に入っていたことをこの町では隠さずに、話していたようだ。これからこの町で住んでいくのだから、隠し事をできるだけしたくはなかったのだろう。
だが、みんながみんなに話していたわけではないだろう。親しいごく一部の人間にだけ話していたと見える。その人物がこの婦人のように口を滑らせたか、あるいは悪意を持って話を広めたかのどちらかして、拡散した。
「大丈夫です。僕たちはアリシアさんが刑務所に入っていたことも知っています」
それを聞いて婦人は安心したのか肩を落とした。
「話していただけますか、アリシアさんのことを――」
婦人はうなずいた――。